卵割 #1(メタバース連載小説)

 葬式は呆気なく終わった。僧侶は真新しい墓に花と線香を供えて一礼しただけで、後を墓の主に任せて山門へと去った。読経も法話も戒名の授与もなかった。それも当然で、この寺を一人で管理する僧侶は墓の建立サービスを「断じて宗教儀礼ではなく文化事業」と言い張ることで諸々の面倒事を煙に巻いている。石材に文字を入れて日本建築の敷地内に並べるだけ、風習にどんな意味合いを認めるかはそれぞれの客の勝手というわけだ。それでも今のところ、この境内に並んでいるのは例外なく「墓」であり、板塀で囲われた敷地も今や百を超える墓で手狭になりつつある。高凪レミ(たかなぎ・れみ)の墓もその一角にある。
 VRの仮想空間の中の墓である。
 高凪レミは自分のユーザー名が刻まれた墓石を見下ろし、VRゴーグルの中で目を閉じて深く息をついた。現実世界の季節に合わせ、境内には積もらない程度の雪が降っていた。
 これで、無謀な理想と別れられる。
 VRに手を染めた二年間、あるいはそれ以前からのもっと長い時間、自分を苦しめた現実と理想との間のギャップ。それをようやく終わらせる決心をしたのだ。男が肉体を捨てて美少女になるなど正気の沙汰ではなかった。傷つけに傷つけた現実の自分の自尊心はすぐには癒えるまいが、しばらくは温泉にでも通って神経を鎮めることにしようと思う。
 このアカウントも、今日で消すつもりだ。
 VRで出会った友達やファンたちに、消えることは伝えていない。しかしここ数か月の自分の様子は我ながらまともではなかったと思うから、この墓を見ておおよその経緯は察してくれるだろう。
 寂しくはある。だが、自由なはずの世界で不自由さを思い出すのはそれ以上に耐え難かった。
 さらば、高凪レミ。
 山門をくぐってホームワールドに戻り、そこで最後のログアウトをしよう。そう考えて自分の墓に背を向け、坂を下る参道を歩き出し――
 その女は、戒を携えて現れた。

「やあ、こんばんは」

 入場を告げる鐘は聞こえなかった。その黒衣の女が言葉を発した瞬間、板塀と雪のパーティクルしか描画していないはずのレミのパソコンの空冷ファンが突如として遠吠えのような唸りを上げ、一瞬前まで雪の日の肌寒さをVR感覚で感じていた皮膚の体感温度がはっきりと分かるほどに上昇した。しかし、それは部屋を対流する空気の一様な加熱とは異なり、頬の前側と耳側、また腕の肩口と肘から先とで熱さの異なる、まるで複数の何者かが突然至近に立ってレミを囲んだような、異様な気配だった。だが現に目の前にいる女への警戒が、ゴーグルを外して事態を確かめることを阻んでいた。
 “魔女”――――
 第一印象から言えば、そのような言葉になるだろう。しかしその形容から連想される老獪さや邪悪さが、女からは全く欠落していた。字を読むことを覚えた子供がそのことを大人に自慢する時のような屈託のない稚気が、その黒衣の佇まいから振り撒かれていた。レミのような者とこのような場所で相対するにはあまりに不釣り合いな、しかし確かに頭上にネームプレートを表示した、VRの住人。
 凍りつくレミに、黒衣の女は言った。
「高凪レミさん。お墓を、建てられたんですね? それでは……
 あなたの“幽霊”と、仲良くね」

 VRには魔が潜む。その魔のひとつに喰われつつあった高凪レミは、魔を語る者――“魔術師”の言葉を、この日初めて聞いたのだった。

          ◆

 今時そう珍しい話ではない。佐野顕好(さの・あきよし)は都内の大学に通う三年生であり、特に大志を抱いて門をくぐったわけでもない大学生活では経済学部に籍を置いていた。そして、大志を抱いて大学の門をくぐったわけでもない学生にはありがちなことだが、顕好はゼミよりもむしろスキーのサークルで少なくない数の友人を得て、冬は山荘で酒を飲み夏は西武沿線で酒を飲んで暮らしていた。「追いトウガラシのあっきー」と言えば関東一円で交流を持つ大学のスキーサークルの間ではそれなりに通った名である。
 その三年目の春に、凶悪な感染症が関東一円を襲った。
 それは、人の集まりの全てが寿命と引き換えとみなされることを意味した。サークル活動の半分以上を占めていた飲み会は小規模なものを含めて根こそぎ自粛を余儀なくされ、飲食店も早い時間に店を閉めるようになった。その中には顕好のバイト先のスペイン料理屋も含まれている。サークルの付き合いは酒がなくなれば脆いものだった。大学の講義も一つまた一つと遠隔授業になっていき、ただでさえ少ない学部の知り合いとの顔合わせは途絶えた。
 流行は冬になっても続いた。スキー場のあるような地域はとても東京からの遊興客を歓迎できる世情にはなく、顕好のように田舎から出てきている学生は実家に帰ることもできない。「追いトウガラシのあっきー」は退屈を持て余した。
 就活さえ遅れた。将来への不安を感じた。
 経済学部は家庭の経済状況を自在に操る術を教える学部ではない。顕好が混迷する就活サイトにしびれを切らし、外にもおちおち出られないこの情勢で何に需要があるかを探して小遣い稼ぎをしようと考えたのは、同年代の中ではまだ頭の回る行動だったと言える。
 最初は、食事の宅配をやろうと思った。しかし調べるうち、あまりに割に合わないバイトに見えてやめた。正確には、それはバイトですらない個人事業主への業務委託であり、労災も賃金交渉もないその実態に、顕好はよく分からないながらも恐れをなした。
 ライターも考えた。流行の話題で記事を書いたり、英語の記事を翻訳したりする仕事だ。自分に文才も語学の才能もないことは大学の講義で分かっていたが、実用的な文章なら何とかなるかもしれないと思った。そして玉砕した。しかし、この経験を経て考えが少し変わった。自分にはまだ仕送りをしてくれる親がいる。最悪の場合は留年も不可能ではないだろう。ならば、すぐに金になる仕事で時間を潰すより、一年くらいかけてでも新しいスキルや見聞を身につけた方が後々のためではないか。
 顕好は考えに考え、調べに調べ――そして結局、自分の数少ない楽しみの一つであるゲームに行き着いた。ただし、顕好が酒を覚える前にはなかった種類のゲームが、同じように人々が外界から隔離されて過ごす家々の中で、その時不気味に勢力を伸ばしていた。
 VRゲーム。立体視のゴーグルをかぶって遊ぶ、仮想現実のゲームである。

  ネットで偶然レビューを見た、廃墟の都市をジェットパックで飛び回るゲーム。顕好が最初に買ったVRゲームはそれだ。正確には、VRゴーグルを買った時にゲームのダウンロードコードがついてきた。パソコンも新しくして、おっかなびっくりゴーグルをかぶり――そして顕好は、最初の三十分でめためたに酔った。
 トイレに転がり込んだ。もうだめだと思った。
 だが、既に機材に大枚をはたいてしまった顕好は後戻りできなかった。自分が動かなければ酔わないだろうと考え、寝転がっているだけでいいVRのAVを買った。そして顕好は、最初の三十分で飽きた。確かに臨場感らしきものはあるが、自分が何もしていないのに女優がせわしなくあれこれしてくれることに違和感があって仕方ないのだ。しかも映像の展開に合わせて微妙に体勢を変えたり、いちいち話しかけてくるのに適当に相槌を打たなければ齟齬が出る。「自分は何をしているんだ」という恥ずかしさが臨場感を上回った時、顕好はVRゴーグルを脱いだ。
 それでも顕好は諦めきれなかった。何しろ既に機材に大枚をはたいてしまったのだ。激しく動く必要のない、しかし寝転がっているだけでもないVRゲーム。調べるうちに顕好はついに辿り着いた。アバターの姿で他のユーザーと話す、ただそれだけの、SNSのVR版と呼ぶべきサービスである。それはもはやゲームやソフトと呼べる代物ですらなく、故に、顕好がこれまで覗いてきたタイトルとは全く違う種類の空気が、レビューの内容に、文体に、画像に渦巻いていた。顕好のこれまでの人生で存在だけは視界の片隅に認識していながら一度も意識的に関わりを持ったことのない人種が、恥も外聞もなく独特な言葉で自己主張をする、一言で言うなればそれは魑魅魍魎の世界だった。加えて言えば、それは無料だった。
 そして、顕好はVRSNSにドハマりした。
 チュートリアルルームで最初のアバターを選んだ時は、作務衣のオヤジが一番自分に合っているだろうと思った。その姿で日本人用の交流ワールドに行った途端、色とりどりの髪の美少女十数人に取り囲まれた。この美少女たちは嫌がらせでもなければ宗教の勧誘でもなく、ましてやゲームの登場人物でもなく、それぞれ頭上にネームプレートの表示された、回線の彼方にいる生きた人間だった。あれよあれよと言う間に顕好は基本操作の説明を受け、景色がいいワールドやアバター展示場のいくつかを案内され、また元の交流ワールドに戻ってきて美少女たちと記念写真を撮っていた。今度は寝転がっているところに奉仕される一方的な映像ではない。何しろゴーグルと両手のコントローラはアバターの頭と両手に連動していて、身振りを交えながらマイクで会話ができるのだ。美少女たちの何人かは顕好のスキーの話に興味を示し、今日入ってきたばかりの初心者でも人の輪に貢献できることを顕好は大学入学ぶりに知った。それでも自分が世話を焼かれるに値する存在だと思えないなら――――
 顕好は作務衣のオヤジをやめた。案内されたアバター展示場で背の低い美少女のアバターを選び、その場で着替えた。案内の美少女たちが褒めてくれた。
 それが、高凪レミの物語の始まりだった。

  最低限、頭のゴーグルと両手のコントローラがあればVRはできる。しかし必要とあらば、位置センサーを増やしてアバターの全身を細かく動かすこともできるのだった。顕好が体中の関節に十個のセンサーをつけて踊るようになるまでに時間はかからなかった。ストリートダンスはVRの中で開かれる練習会で見よう見まねで覚えたものだが、顕好には自分でも気がついていなかった才能があった。人が集まるワールドの路上でダンスを披露するようになり、そのうちにダンスグループの一員として声をかけられてイベントでショーをするようになった。その頃には、顕好は最初に展示場で着たサンプルからアバターを転々とし、自分で3Dモデリングソフトを使って服や小物のアレンジができるようになっていた。名前は、自分でつけた「高凪レミ」に変わっていた。
 レミが自作のアバターを用意すると同時に、件のダンスグループは動画サイトでVR内のダンスイベントを配信し、収益を得るようになった。収益はレミにも分配された。額こそ飲食店のバイトに満たなかったが、その金につけられるメッセージは正真正銘、観客からレミのパフォーマンスに対して直接支払われたものだと示していた。レミ個人のファンもついた。住む場所に左右されず、危害を加えられることもなく直接会う感覚を得られるVRでは、自分を認めてくれる人の一人一人と直に言葉を交わし、アバターに触れ合うことができた。そのファンの中には、別の分野では自らもひとかどの技術と実績を持っているVRユーザーも少なからずいた。彼らの集まりに顔を出し、存在すら知らなかった趣味や学問の話を聞いた。無知であることさえ武器になった。学校と違い、ここでは互いの世界を知らないのが当たり前であり、尋ねれば彼らは快く――時に鼻高々に――教えてくれた。
 自分自身でも配信をした。アバターを新しくすればファンが祝ってくれ、ボイスチェンジャーで女の子の声になれば「かわいい」と言ってくれた。踊るために部屋を模様替えし、防音シートを壁中に貼った。他の配信者の番組に出演したり、ネットメディアの取材に呼ばれることも何度かあった。ただ、スキーの話だけはしなかった。どこで誰が見ているか分からなかったし、スキーはあくまで顕好の経験で、レミのものではなかったから。

 VRSNSの時間の流れは速く、一年足らずの間にレミの生活の重心は飲み屋からネットのVR空間へと急速に傾いていた。しかし、VRにも飲み屋はあった。
 西武沿線や麻布界隈で飲み歩いていた顕好でもお目にかかったことのないような、古き良き猥雑な歓楽街のワールドがあった。客層までそれはそれは猥雑で、いつ行ってもその時間帯に夜である国のユーザーが道に大挙して固まり、大音量の音楽をマイクに吹き込みながら互いに通じない言葉で騒ぐのが常だった。
 現実ではあり得ない体型をした美少女たちが接客する、招待制のクラブがあった。さあ欲望を晒け出せと言わんばかりの露骨なアバターに最初は尻込みしたが、ある時キャストの一人の声に自分と同じ、しかしそれより遥かに目立たない音声変換の痕跡を聞き取ってからは何もかもどうでもよくなった。罪悪感なく欲望を晒け出せる相手を求める者、他者の欲望を受け止めることで自分自身の欲望に救いを与える者。レミは背が低いのをいいことに、彼女たちの膝の上・胸の下を定位置にしては豪遊した。
 ダンスの合間にそれらの酒場を巡るうちに、気付いたことがある。VRの中では飲食ができない。無限に注げるビール瓶や色を混ぜられるカクテルグラスは、結局は映像に過ぎない。しかし、話したり笑ったりするのに、自分や相手がアルコールを経口摂取しているかどうかということはもはや全く問題にならないのだった。ある者は現実の机で酒を開け、ある者は開けなかった。飲まない者に飲ませることはできなかったが、それで場が悪くなるということはなかった。ワールドと人の組み合わせが話題を作り、沈黙さえ会話の不在ではなく一つの応答の交換であることをレミは初めて知った。考えてみれば当たり前だ。子供の頃には、酒がなくても人と遊ぶことができたのだから。
 酒や四川料理に頼らない会話ができるようになったことで、レミの渡り歩く範囲はさらに広がった。大学やサークルではついぞ出会うことがなかったはずの種類の人々が、レミの周りに増えていった。
 レミの世界の広がりの傍らで、部屋の外では人々が少しずつ、家に閉じこもる生活に飽きつつあった。

次に続く・・・

【編集部注】
この作品はフィクションです。物理現実ならびに仮想現実の実在の人物・団体・サービス・ワールド等とは一切関係ありません。

【筆者紹介】
ソーサツ・チエカは、バーチャル美少女。2022年8月31日よりVRChatユーザー。
キャラクター表現と人間の心理との関わりに関心を持つ。clusterで開催されるバーチャル学会において2022年より、キャラクターを情報の運び手と捉える立場から「美少女場の量子論」と題する一連の研究を発表している。アバターコミュニケーションが人間にもたらす新たな可能性を、VR小説の製作を通して模索する。好きな作家は高橋弥七郎と秋山瑞人。