卵割 #2(メタバース連載小説)
ソーサツ・チエカ
春、顕好は半年ぶりに大学に行った。
キャンパスは何も変わっていなかった。至る所に消毒液のポンプが置かれ、学生が以前の半分以下しかいないだけで、そこで行われていることは感染爆発の前と同じだった。講義を受け、大学近くのラーメン屋でラーメンを食い、また講義を受けた。教室にいるのは顕好と似たような無趣味のバカで、マスクからのぞいている目つきだけを見ても、引きこもり生活の間に何も成長がなかったことはすぐに分かった。
――なあ、VRってやったことあるか?
隣の机の学生を小突いて、そう訊いてみたかった。しかし顕好にはできなかった。今や、顕好はこの大学の学生とは交わることのない魑魅魍魎の世界に行ってしまった。もちろん、VRで知り合った人たちの中には宴会好きの大学生や中卒で働き出した人もいる。しかし今キャンパスを行き交う学生の誰がそうなのかは分からなかった。決して多い割合ではないだろうことだけが分かった。
いっそ、大学の路上で踊ってみるか。
自分が部屋にいながらにして手に入れたものの一端を、ここの連中に披露してみるか。
経済学部棟の玄関口に立って、顕好は首を振った。この大学の連中が、それで立ち止まってくれると思ったか。学祭でもない、音楽プレイヤーもない、揃いのTシャツを着た集団でもない。そんな中で、頼まれもしないのに一人で踊る、その「脈絡のなさ」にこいつらは耐えられない。去年までの自分もそうだった。飲み会のノリで手拍子を受けて、それでようやく「追いトウガラシのあっきー」が現実ではせいぜいだ。
他の、もっと偏差値の高い大学なら、構内の路上で突然何かを始めても喝采がもらえるだろうか? VRではもらえた。何かを新しく始めてみること、たとえ下手でも人と共有してみることをVRでは皆が歓迎した。あるいは他の町なら、他の国なら? もらえるとももらえないとも言えない。実家の田舎と、大学のある東京と、東北のスキー場だけが顕好の知っている現実世界だ。それに、そうだ、そもそも、男が踊ったって誰が見る!? 作務衣のオヤジでは親切にされるに値しないと思ったのは他ならぬ自分だ。かわいいから、女の子の体だから、目を留めてもらえる。現実にいる限り、美少女ではない自分と冷たい人々の中をどこまでも生きていかなければならないとしたら? VRで手に入れたものを何一つ現実に持ち帰れないまま、二つの世界に自分を断ち割って、人との距離の空いたこれからが続いていくのだとしたら?
「う……あ……あああ……」
顕好は掠れた呻き声を上げた。地面を踏む感覚はないまま、体は路上を前に向かって滑り落ちるように進んでいた。あたりの学生の歩みが早回しに見えた。就職先が決まっていないことが思い出された。嫌だ。思い出したくない。未来のことは考えたくない。早く家に帰って美少女の姿で美少女たちと会いたい。滑り落ちるような歩みが徐々に、身体に染みついた動きへと変わっていく。ステップを踏む。両腕を広げる。視界が潜望鏡のように狭まる。片足を小さく蹴り出して回る。指先に点した光が波打った軌跡を描く。身体の動きに引き出されて、舵輪を回すように意識が浮かび上がる。喉に力がこもり喉仏のあたりの気道が狭まる。名乗り、
「はーい……どうもこんれみ……いつもありがと……VRダンサーの、高凪レミ、です……」
……
…………
……………………
その日から、VRからログアウトしても、高凪レミは消えなくなった。
元からだが、VRをやっている時、顕好は高凪レミを演じているような意識になる。ヘッドホンをしてボイスチェンジャーを使っているので自分の元の声はほとんど聞こえないが、それでも頭蓋骨を伝わって直接耳に届く分がいくらかある。自分が男であることは自然に認識しているし、イベントや配信では前もって用意していた台本を常にチェックしている。レミとしての意思決定は顕好の意思でもあり、そこに断絶があったことはない。
しかし、VRからログアウトすると、顕好が「抜けた」後にレミが残るようになった。レミの言いそうな口調で、レミの言いそうにない言葉が口をついて出ることがある。女の子らしい声に近づけるために、ボイスチェンジャーのソフトと併用して自分の声音も喉の筋肉で変えている顕好にとって、僅かに声を高くすることは無意識でやってしまうほどに容易い。それを我慢して言わずにおくと、言葉は顕好の頭の中を暴れ回って、やがてレミの姿の像を結ぶ。幻覚ではない――自分の背後や膝の上にいて、唇の端を吊り上げて何事かを囁きかけてくるレミの姿を“想像せずにはいられない”ような切迫を感じるのだ。普段3DモデリングソフトやVRの鏡でレミの顔を間近で見ているせいで、想像は残酷なまでに鮮明だった。全身にセンサーをつけてあらゆる動きをアバターと連動させ、その状態で人前に立ったり鏡を見て練習したりする顕好には、人からアバターに触られる映像を見るだけで本物の触覚を感じてしまう感覚さえ発達していた。レミはその感覚をずるいくらいに利用して、顕好の耳元に顔を寄せて囁くのだ。
「もっと遊びたいなあー、もっとわたしの時間がほしいなあー」
「顕好なんてやめちゃえばいいよ。つまんないでしょ?」
「わたし、ほんとはかわいいのに、もったいないよねえ」
「寝たぐらいで、わたしから離れられると思わないでね?」
その言葉の通り、レミは眠っていても現れた。ある時、スキーサークルの連中と見知らぬファミレスで薄いハイボールを押しつけ合っている夢を見た。レミは顕好と隣の同級生の間の二十センチもない隙間に座って、顕好に向かってひっきりなしに「ほら、わたしのこと紹介したらどう?」と囁き続けた。
またある時には、中学の時に付き合っていた彼女の家に行く夢を見た。当時は未遂に終わったが、今回もきっとそうだろうという漠然とした確信があった。彼女の家には彼女と顕好以外誰もおらず、雨の降り出しそうな曇りの日の夕方で、彼女と二人でベッドに座ってもなお顕好の気分は高揚しなかった。お互い黙ったまま次の行動を起こせずにいると、そのうち顕好の両手は彼女の顔に伸び、額から上瞼にかけてのあたりに大きく円を描く、VRゴーグル使用者に特有の手つきで撫で始めた。当時中学二年生だった彼女は一瞬困惑したが、いきなり激しい行為に及ばなかったことに安心したのか、レミの手にじっと頭を預けてきた。彼女の顔は見てそれと分かるほどに緩み、レミは常に片手を彼女の視界に入れて安心させながら、もう片方の手を彼女の背中に回してベッドに横たえた。そこから先を顕好は見ていない。テレビの電源を切るように、偽の記憶を見続けることを拒んだからだ。あの時、実際には――果たして、何が原因で未遂に終わったのだろう? あの日に戻れるとしたら、今度こそ最後までしたいと、自分は思うだろうか?
レミだけしか出てこない夢もあった。どこかの初夏の高原の、冠雪を望んでどこまでも広がる草原で、レミは一人で踊っていた。VRでやったことのないスタイルで、バレエのように悠々と。顕好が近づくと、レミはステップに合わせて顕好の手を取った。二人回りながら駆けていく。遠くに見える冠雪の山に向かって、どこまでも――どこまでも――。
事ここに至って、顕好は自分が何に手を出したのかに気付きつつあった。レミはもはや、顕好がネットの世界で演じる単なる人形ではない。紛うことなき顕好の一部が、名をつけられ人に認識されることで強固な輪郭を得た、一個の生きた人格だった。その本体は仮想空間ではなく、顕好の中にこそあった。ただ、厭世的な人種で構成された発展途上のVRSNSには、現実にはできないことをし、それに機械による没入感のみによらず自ら進んで浸りきって遊ぶ土壌があった。そこは必然的に、非情な外界と内面の深淵との優先順位を狂わせかねない空間だったのだ。
改めて周囲を見回すと、同じように現実の味気なさを感じて生きている者たちが所々にいた。彼らは一様に、「俺らは現実に働きに出て、衣装や機材を買ってVRに帰るんだよ」と言った。しかし顕好からすれば、彼らは働けているだけマシだった。
現実とVRの両立を掲げて情報を発信している者たちや、プロのカウンセラーを自称するユーザーにも出会った。しかし顕好には彼らの言葉が持てる者の空言に思えた。両立するべき現実が既にあるなら、後はそれを少し補強してやるだけでいい。顕好には何もない。大学の人間関係には楽しみがなく、就職先も決まらず、生活は未だ感染流行期の混乱を引きずっている。それでもレミでいれば人と繋がることができた。顕好は再び大学に行かなくなり、毎日VRに入り浸った。
顕好がレミに時間を注ぐうちに、レミもまたおかしくなっていった。ダンスを始めた頃は人目を気にして当たり障りのないことを言っていたレミだったが、少しずつパフォーマンス中のトークに棘が混じるようになっていった。例えばこうだ。
「どうもこんれみー! あれ? みんなの声が小さいなあ? こんれみー! ははあ、マイクをオンにしてない人が何人かいるな? デスクトップ参加の人もいるじゃない! 分かるよ、VRって高いし冷静に考えるとキモいもんね。でもそれじゃあ人生損してるんだなあ。わたしのダンスはさ、お客なりに気合い入れて見てほしいんだよね、やっぱり。わたしも遊びでやってないから。分かるよね? じゃあ次の曲いきます!」
レミが今手にしているものは、顕好が現実で望んでいたものだ。非の打ち所のない容姿、まっとうな技能、贔屓目抜きで認めてくれる人々。加えて言えば、ボタン一つで会いたい人に会いに行ける便利さ。しかしレミは満足しなかった。技術も影響力も、費やした時間と労力に単純に比例するものではない。そのことが受け入れられなかった。
レミが所属するダンスグループのイベントでは、レミの出番の後から参加する観客の割合が増え、観客全体の数は減り始めた。座長は複数人で踊るステージを多くし、暗にレミの喋る機会を減らすことで雰囲気が悪くなるのを防ごうとしたが、その思惑を察したレミとの間でじめじめとした衝突があった。レミが自分の配信でそのことを仄めかしたために、客足はますます遠のき、代わりにVRにも棲息する揉め事好きの煽り屋たちが集まってきた。VRで出会って個人的に付き合いのあった友人たちはそれでも心配してくれたが、じきに距離を置くか、そうでなければレミの方から距離を置いた。
レミは一人になった。しかし、現実に戻ると二人だった。
「また、馬鹿なこと言っちゃったんだ。でも許してあげる。顕好には、もうわたししかいないもんね」
「いいな、いいな、顕好だけご飯食べるのいいな。お腹すいたな。わたしかわいそうじゃない? 早くあっちに帰ろうよ」
「今、左足から靴履いたよね。いつもは右足から先にトラッカーつけるよね。やりなおし」
病院に行くことを考えなかったわけではない。しかし、確かにVRの中で自分の人生を持って生きているレミを、薬を飲めば消える幻覚だとは思いたくなかった。なぜレミが自分の手に負えなくなったのかは分かっているつもりだ。何かできることがあるとすれば、それはVRの中で完結する儀式であるはずだった。
留年は確実だった。来たる一年で人生を立て直すために、年内には何とかしなければならなかった。考えに考えた末、VRSNSの中にある寺でレミの墓を建て、供養して眠ってもらうことを思いついた。レミは暴れた。しかしVRゴーグルをかぶると、もはやレミは顕好と一体だった。
季節は既に冬だった。僧侶に伴われ、VRの山寺の墓所に立った。
次に続く・・・