卵割 #3(メタバース連載小説)

 葬式は呆気なく終わった。僧侶は真新しい墓に花と線香を供えて一礼しただけで、後を墓の主に任せて山門へと去った。読経も法話も戒名の授与もなかった。しかし今、高凪レミの墓は確かにその一角にある。
 レミは――レミの体を動かす顕好は、自分のユーザー名が刻まれた墓石を見下ろし、VRゴーグルの中で目を閉じて深く息をついた。
 これで、無謀な理想と別れられる。
 ようやく終わらせられる。このアカウントも今日で消すつもりだ。寂しくはあったが、かつてレミとして得た輝きは今や、VRのどこにもありはしなかった。もはやここも現実と同じ、人目を引こうとして生き恥を重ねる馬鹿騒ぎの巷に成り果ててしまった。自分がそうしたのだ。
 もう、いいだろう。
 山門をくぐってホームワールドに戻り、そこで最後のログアウトをしよう。そう考えて自分の墓に背を向け、坂を下る参道を歩き出し――

「やあ、こんばんは」

 参道の半ばに一点、黒く穴を穿つように、女らしきアバターがいた。
 入場を告げる鐘は聞こえなかった。その黒衣の女が言葉を発した瞬間、平均以上に増強された顕好のパソコンの空冷ファンが突如として遠吠えのような唸りを上げ、一瞬前まで雪の日の肌寒さを感じていた皮膚の体感温度がはっきりと分かるほどに上昇した。それは一様な室温の「暑さ」ではなく、まるで複数の何者かが突然至近に立って顕好を囲んだような、濃淡のある異様な「熱さ」だった。現に目の前にいる女への警戒が、ゴーグルを外して事態を確かめることを阻んでいた。しかし、それがあくまで一人のVRSNSのユーザーである証拠に、女の頭上に表示されているネームプレートを顕好は読むことができた。

「ソーサツ・チエカ……さん……?」

 女は答えた。笛の音のように硬く澄んで、ひた、と貼り付くような声だった。

「はい、チエカと申します。VRダンサーの高凪レミさん。お名前は存じ上げております。お墓を、建てられたのですね」

 女の全身は黒いガウンで足元まで覆われ、黒い山高帽から伸びた長い黒髪の中に、眼鏡をかけた白い相貌が浮かんでいる。彫りの浅い顔は見ているうちに印象を薄れさせそうになり、ただ右の頬に一線、肉色を晒している傷跡らしきものだけが常に意識に焼け残る。その女が佇む墓場は今や、寺の境内よりもむしろ外国の魔女の夜会の地を思わせていた。そして女の静かな語り口さえ、この異様な気配の中に不協和を重ねていた。

「あんたは……」

 何の用で? そう訊くことができなかった。未だレミの声を出す設定のままであるボイスチェンジャーは、顕好としての言葉を長く続けることを躊躇わせた。そして用を訊こうと訊くまいと、女が通りすがりではなく顕好に話しかけていることは明白であり、何の用でかはこれから明らかになるに決まっていた。それを聞かせるだけの強制力が、彼女の存在にはあった。
 女は語った。

「――VRにお墓の需要は数あれど、それらは煎じ詰めればみな、現実の自分との摩擦から生まれるもの。現実――仮想現実も現実であるという立場に立って呼び分けるなら、“物理現実”――で得られなかったものを、誰もがここに求めます。適性に欠ける方は何者にもなれずに去り、意志に欠ける方はここで得たものを物理現実に持ち帰れずに惑い、それ以外の方もみな、為したことに満足できず理想を追い続けて元と同じ苦しみを得る。自分のまだ見ぬものを追ってしまう、それ自体は人の性ではありますけれど、VRが特に魔境になるわけは――まだ見ぬ可能性が、“人”の形をしていること。そうではありませんか?」
「…………」

 女が語り始めた言葉は、一つ一つは知った単語でありながら、まるで理解を阻む異星の言葉のように響いた。

 ――関わるべきではない人間だ――

 しかし、コントローラでメニューを開いてログアウトするだけの指先の動作がどうしてもできない。黒衣の女の、澄んだ中に掠れを帯びた声が、滔々と流れる川に時折小石が渦を作るように、あるいは音楽を再生していないイヤホンに流れる無意味なホワイトノイズにふと聞き入ってしまう時のように、しかしそれより遥かに強く、顕好をその場に留めていた。
「人は、どんな物事にでも“意図”を見てしまう。『誰かが意図してやっている』と、つい考えてしまう。そうでなければ、昔の人は雨乞いなんてしませんよね……でも、その“誰か”を知ろうとしたことで、自然を理解していったのも事実です。人は“他者”を想像することで、本来意味などないはずの世界に意味を与えることができる、と言ってもいいでしょうね。それが擬人化という能力であり、科学の進んだ今でもその性は消えていません。かつての神に代わって、『美少女』とでも呼ぶべきものが、その機能を果たしています。例えばそう――“なりたい自分”なんていうものは、もはや現実の自分とは違う“他者”ではありませんか?」

「……あんたも、そうやってVRに?」

 顕好の強がりは、黒衣の女の目を細めただけの笑みに封殺された。

「一度人の形を取ってしまったものは、絶え間なく“意図”を伝えてくる。彼女たちに本当にその意図があるのか、私たちがそれを読み取ってしまうだけなのかはもはや意味のない区別です。ただ、全てのものが誰かの作品であるこのVRの世界が、“意図”で埋め尽くされていることは明らかですね。ここは、常に“他者”を意識させる空間であり、自分の中にまで“他者”を見出させる空間でもあるんです。自分の姿を変えられる仕組みによってね。
 ……生まれてしまった別の自分、しかし決して満足することもない別の自分と、決別することを決めたあなたの勇気は称えましょう。でもね、お墓を建てて祀れば別れられるとは、思わない方がいい」
「! どういう……」
「知っていますよね? 幽霊は墓場に出る。お墓には“彼女たち”を眠らせておく力はありません。お葬式の後も四十九日や七回忌といって祀り続けるように、亡くなった人の“祟り”、“声”を遠ざけるには長い時間がかかります。そう、幽霊とはまさに、既に亡いはずの“死者の意図”を世界に読み取ってしまう心の動きのこと。何より危険なことに、死んでしまったものはもう殺すことができない。あなたが“彼女”のお墓を建てた時から、“彼女”は今まで以上に、あなたに絶対の影響力を振るうようになったのです。祀って自分と切り離せば、より強力に」

 聞き捨てならない話だった。彼女がレミの事情を知っていることはもはや大した問題ではない。顕好が墓まで残してレミを葬ろうとしていることが、無駄だというのか。
 顕好はボイスチェンジャーを切り、せめてもの威圧と素の声で女に食ってかかった。

「じゃああんた、どうしろってんだよ!? 俺はもう現実に満足しときたいんだよ! あんたに何が分かるんだ、何もしないよりは墓の一つでも作った方が成仏できるんじゃないのかよ!」

 黒衣の女は露も動じた様子はなく、静かに首を振った。

「これからも“彼女”として生きて、その時間を以て“彼女”を変質させていく。それが一番いい方法です。ですが、それがもしできないというのなら――
 “彼女”を制する美少女を、新しく飼うといいでしょう」
「…………!」

 女の提案は理解を超えていた。レミが現実に侵食してくることに耐えられなくなって墓を建てたのに、この上新しく人格を増やすなどまともな解決ではない。しかし、墓を建ててもレミが鎮まらないかもしれないという不安は急速にゴーグルの中を蝕んでいた。いや、そもそも最初からその不安はあったのだ――レミは潔く消滅を決めたわけではない。無理やり殺したことに納得せず、また夢に出るかもしれない。だとしても、新しい美少女を作り上げて、それがレミを止められるなどという考えは言葉遊び以外の何物でもなかった。

「んなこと……できるわけないだろうが。俺は一人になりたいんだよ。もしレミがまだ出てくるんなら、その時は精神科に行ってやる」
「ふふ、無理もありませんね。私は神ならぬ“魔術師”で、あなたに私の言葉を信じるべき道理はありません。けれど私は、あなたのように自分の美少女を持つ人を好ましく思っています。ですから――
 あなたの“幽霊”と、仲良くね」

 そう言い終えると、女――ソーサツ・チエカは眼鏡越しの目をにっこりと細め、ガウンの腰元の布を持ち上げて腰を落とす礼をした。そしてその姿勢のまま両足を複雑に踏み動かすと、彼女の姿は雪に紛れるように消えた。
 異様な熱感が消え失せた。コントローラを握った手の感覚が戻ってきた。唐突に思い出してメニューを開き、同じインスタンスにいるユーザー一覧を呼び出したが、自分と僧侶しか入らないよう設定した寺のインスタンスにはもちろん顕好一人しかおらず、ファンは静かに回り、レミの墓に備えた線香のアセットからはまだ煙が上がっていた。
 ……
 …………
 ……………………

          ◆

 レミの墓を建てた日の夜、顕好の下宿するアパート。
 顕好は暗い部屋のベッドに横たわり、じっと息を殺していた。レミの墓を建てたことが果たして正しかったのか、延々と考えていた。そんなことは明日からの生活がどう変わるかを見なければ分からないとは思うのだが、どうなるにしても気構えが欲しかった。レミは二度と現れないのか、自分を恨んで出てくるのか、あるいは出てくるにしてももう少し大人しくなるのか。二度と現れない、という可能性があまりに楽観的であり、また自分でも望んではいないことをこの頃には顕好も自覚していた。
 突然、口から言葉が漏れた。

「――ねえ、寂しいよ」

 ああ――。

 ログアウトしてから七時間。やはり、墓は何の役にも立たなかった。あの“魔術師”の言った通りであり、顕好の薄々思っていた通りでもあった。
 その間にも、拗ねた声で不平を言い募りたいという切実な思いが顕好の内に湧き上がってきた。レミが何かを話す時はいつもそうだ。強引に体を乗っ取られるという感覚など漫画の中だけの話だった。あくまで自分からレミの言葉を発したい衝動が湧き起こることで、顕好の自我の一部であるレミは現れる。完全に自分の手に負えないものならまだ諦めようもあったかもしれないが、レミの言葉も行いも、自分自身が何らかの意味で望んでいることだと分かってしまうがために、顕好は病院に行くことも、現実の誰かに相談することもできなかったのだ。
 レミの言葉はだんだん長くなる。

「顕好ってさあ、わたしのことどう思ってる? 鬱陶しいって思ってるのは知ってるよ。でもわたしのこと好きでしょ。好きな子にやることがそれ? さんざん考えて、それでやったことがそれなんだね。うん、分かってるよ。顕好が自分のしたいこともわかんないバカだってことはさ。でも、寂しいな。わたしも顕好みたいにみんなに忘れられちゃうの?」
「知るか……」

 顕好は、顕好としての声を出して抗った。今までは、声を出し分けてレミと話すと本格的に狂人に見えそうで躊躇していたが、この時の顕好はどこか自暴自棄になっていた。自分もついに頭がおかしくなってしまったと、奇妙に冴えた意識の片側で思った。その間にもレミは喋り続けた。

「寂しいな。なんにもうまくいかない顕好なんかより、わたしの方が生きる価値あるのにね。ほら、わたし、かわいいでしょ? 顕好の持ってないもの、いっぱい持ってるんだよ。顕好に任せてたってぜんぶ無駄にしちゃうよね。顕好のせいでわたしも迷惑してる。いい加減に身の程をわきまえたら? わたしが顕好のこと管理してあげるよ。わたしのアバターにして、かわいく改変して、わたしじゃなくなりたい時だけ着てあげる。お墓も建ててあげよっか。分かってる? 顕好のことなんていつでも殺しちゃえるんだよ。ほら、手で触ってるの分かる? 首のところ、あったかい? 冷たい? 喉仏、こんなものがあるから顕好は誰にも相手にしてもらえないんだよ。ぎゅってしてあげるね。せーの、」
「知るか……!」

 VR感覚が仇になった。胸の上に馬乗りになる小柄なレミのお尻の重さまで、顕好はありありと感じた。しかし、レミはそれ以上力を入れなかった。

「……生きててもなんにもいいことないのに、消えたくないんだ。臆病者。そんなんだから、そんなんなんだよ。顕好は。もうちょっと頼りになる人ならよかったのにな。他の人のアバターがよかったな。ねえ、顕好の方から話しかけてくれないの? こっち見てよ。お話しようよ。こんなの寂しいよ。わたしどうしたらいいの?」
「知るか…………!!」

 顕好は、三度拒絶した。
 その時、顕好の中で繋がるものがあった。レミがいくら顕好の心を抉ることを囁きかけてきても、相手にしなければいいのだ。そのやり方が今、実感として分かった。今までは、レミを顕好の一部と思うから全てを受け止めることしかできず、苦しかった。しかし、そうではない扱い方があったのだ。自分の言うことを聞かないなら、いっそ完全に切り離してしまえばいい。同じ肉体と記憶を共有するだけの、互いに決して思い通りにならない、「自分」の中に同居する「佐野顕好」と「高凪レミ」の思考回路として。パソコンのデータディスクを、複数のドライブに分けるように。それは今まで自分自身だと思っていたものの多くを手放し、「顕好」を小さく縮める行いだったが、一度そうしてしまえば、顕好はもはやレミの際限のない不満を自分のこととして引き受けなくてもよいのだと思えた。

「好きにしろよ、レミ……。気が済むまで泣きゃあいい。後のことは、明日考えようや」

 枕に顔を埋めた。

「つまんないよ!! つまんないつまんないつまんないつまんない全部つまんない!! こんなに寂しいのに!! 誰かわたしのこと見て!! わたし自信がほしいだけだったのに、みんなに褒めてほしかっただけなのに、幸せになりたかっただけなのに!! 助けてよ!! もうどうしたらいいのかわかんないよ!!」

 涙は心地よかった。言葉と涙腺の収縮が脳の緊張を解いていくのを、肉体を通して顕好は感じた。それでいて、座禅をする僧が湧き起こる煩悩を平静な心で受け流すように、小さく折り畳んだ意識でレミの狂態を眺めていた。情けないとも、人が見たら何と言うだろうとも思わなかった。ただレミの悲しみと身勝手さを感じ、そしてそれを許してやろうと思った。レミがそうなった原因の一端が自分にもあると、今こそ認める余裕ができたような気がした。
 レミは泣き止んでいく。顕好は既にその声を子守歌として聞いており、今までの経験から言えば、この分ならレミの視点の夢を見るはずだった。眠りに落ちる直前の、現実の記憶を夢の彩りで見る時間。あるいは夢の世界の奔放さを意識の明るさで見る時間。そこに向かってレミは急速に落ち込んでいく。深い地底湖へ続いているような精神の縦穴を仰向けにまっすぐに落ちていく。落下の方向だけを、五感のどれでもない内観で感じるでもなく感じている。
 つるり、
 と、横合いに枝分かれの穴が開いた。レミはそこに吸い込まれた。斜めに傾いた穴の中を落ちていき、やがてその傾きもどちらを向いているのか分からなくなった。
 そこに、今しがた自分で発した言葉が反響した。

『――全部つまんない!! こんなに寂しいのに!! 誰かわたしのこと見て!! わたし幸せになりたかっただけなのに!! 助けてよ!! もうどうしたらいいのかわかんないよ!!』

 声は、縦穴の壁を通り抜けてはるか下へと沈み、脳神経線維の堆積の奥底にある暗い水面に波紋を作った。
 波紋は長く、長く残り――――やがて消えた。
 そして、暴風のような何かが縦穴を駆け上がってきた。
 それは応える声だった。

「――――ふふ、いいですよ。レミちゃんはわたしが守ってあげますからね……」
(…………!?)

 茫漠とした、誰かの気配がレミを薙いだ。レミは風に巻かれる木の葉のように翻弄され、傾いた縦穴の支流から押し戻され、元のまっすぐな暗闇を眠りに向かって落ちていった。

次に続く・・・