卵割 #4(メタバース連載小説)
ソーサツ・チエカ
何かが起きている。
昨夜、レミと自分をうまく切り離して、互いに振り回されることのない関係に落ち着く確信を得たはずだった。しかし、その直後に何かが起こった。
一つだけ確かなことがあるとすれば、あれは、自分の声だ。
肉体の喉で喋ったわけではないが、確かに自分で声を出したという感覚がある。それ自体は、触っていないのに触ったように思えるVR感覚と同じようなものだ。しかし、どういうつもりでそんな言葉が浮かんだのかは全く分からない。あの瞬間、あの声を発した何者かが“ここ”にいて、レミに向かって語りかけた。顕好ではない。
何かまだ、隠れた欲求不満があるのか?
なくはないだろう、人間なのだから。しかしそれが何で、どうすればいいのかは分からない。当面は、次に何かが起こる時を待ちながら生活を続けていくしかなかった。
いや、
できることはある。あの「何者か」は顕好が眠った後、レミに対して語りかけてきた。ということは、顕好として生活している間は、きっと「何者か」は現れない。とはいえ、レミは都合のいい二重人格のように簡単に呼び出して体を操ってもらえるような代物ではない。唯一顕好とレミを切り替えるスイッチはVRだ。しかし、結局アカウントこそ消さなかったものの、墓を建ててしまった手前、しばらくはVRSNSには入らないつもりだ。ならば、
顕好は、パソコンをスリープから復帰させた。ボイスチェンジャーのソフトが自動的に立ち上がり、マイクに入力される音声から環境ノイズを除去し150Hz以下と8000Hz以上をカットしピッチとフォルマントを調整し歯擦音を抑制し、ミキサーソフトを介してスピーカーにレミの声を伝え始めた。そのスピーカーはVRゴーグルと一体化したヘッドホンの形をしている。顕好はVRゴーグルをかぶり、センサー付きのベルトを身体に巻きつけ、VRSNSを含むVRゲームをホストするプラットフォームサービスだけを起動し、デフォルトのログハウスの空間が周囲に表示されるや、徹底的に防音された自室で名乗りを上げた。
「はーい、どうもこんれみー! VRダンサーの高凪レミです! いつもありがとー!」
女の子の声。その瞬間、自意識の形が滑らかに切り替わり、レミの思考が精神と身体感覚の表面に浮かび上がる。即ち、147センチの身長、弾力を意識した四肢の伸び、華奢さと直結した無敵さ、罪悪なき承認欲求、価値ある自己、かわいさ。蛍火舞う寂静の娘、高凪レミ。
「今日は作業配信していくんだけどー、新アバターじゃないんだよね。何ていうの? 指名手配って感じかな?
昨日の夜ね、わたしのところに来た女の人がいてね。配信もVRもしてないのに、直接夢の中に出てくるんだからびっくりしたよ。あのー、配信見てるー? 見てたらコメントお願いしまーす! 今からわたしの記憶を頼りに、あなたの声をイメージしたアバターを作っていきます!」
配信ソフトは起動していない。しかしレミになるには十分だった。ゴーグルをかぶることで現実の肉体が見えなくなることは重要だが、それ以上に声が変わることの方が影響が大きい。配信の時と同じように絶え間なく喋り続けることで、レミとしての自意識が維持される。3Dアバター制作ソフトを新たに立ち上げ、昨夜聞いた声の響きを自分の見知ったキャラクターデザインに照らし合わせて立体に起こしていく。VRの視界にパソコンの画面を映し出し、片手のVRコントローラをマウスに持ち替えてである。
「あれはねえ、大人のお姉さんだと思うんだよね。落ち着く感じで、髪型はとりあえずロングなのは間違いなくて、目はこのあたりの垂れ目のやつで。でもちょっとだけアグレッシブなところがあるんじゃないかな、守ってあげるって言ってたから守る実力があるんだよね。そういうのは瞳で表現するわけ。実力ってなんだ? そうそう思い出してきた、顔の形はちょっとだけ男っぽくするとなんでかきれいに見えるんだよね」
レミが使っているソフトは、まず瞳や眉毛などのパーツごとにデフォルトで用意されている素材を選び、その後細かいパラメータを調整することでアバターをデザインする。これは、衣装の柄などのテクスチャ画像を描く前の大まかな色や目鼻立ちを決める段階では、単純なクリックだけでほとんどの作業が済むことを意味する。今、レミが潜望鏡のように狭いVRゴーグルの視界でアバターをデザインできているのは、まさにその賜物だった。
「瞳のハイライトは……あ、これだね。これしかないです。瞳の色は赤以外の、そうだなあ、緑。あ、あとそうだ、眼鏡だ。絶対眼鏡かけてるよ。鼻と口はまあこれでいいとして、髪に戻ろうかな。何色がいいですか? えーと、緑……違う、銀……? え、もしかして人間じゃない……? ケモ耳がいるやつ? あー絶対そうだ!! 狐のお姉さんだこの人! そうそうそうそうこれこれこれこれ、わかってきたわかってきた、身長は180センチくらいあるでしょ、胸は大きいけど大きすぎないでしょ、腰回りはバランス見て適当で脚は長くて、うわ190センチになったけどいいや、尻尾はあとで作ろう、それより服だよね、あっ浴衣あるじゃない、こんな派手じゃなくていいけどこんな感じ、あー顕好のおばあちゃんちに行きたいな、こんなお姉ちゃんほしかったな。いいないいな、わたしも人間の世界は窮屈だよー、全然うまく踊れないしわかんないことがたくさんあるし、顕好は頼りになんないし、甘えたいな、子供のころに戻りたいな、」
「――――じゃあ、戻ってみる?」
来た。
奔流のようなレミの独り言に割り込むように、それとは色合いの違う別の言葉が「発されたい」という切実さを伴って湧き上がり、声帯とボイスチェンジャーを震わせた。顕好から発したのか、それとも誰の名前もまだ持たない深みからか、レミの言葉を受け止める第三者の感覚が形作られ、昨夜夢うつつで聞いたのと同じ響きでレミに語りかけた。
「――いいんですよ。レミちゃんも顕好ちゃんも、わたしといる時はなんにも怖いことありませんからね。淋しくなったら、いつでもわたしのところにおいでなさいな。ずっと一緒にいてあげますからね……」
その声を発しているのは、もはや誰だったのだろうか。その時確かにゴーグルの内側には、レミと顕好を慈しむ感情があり、人の世から半歩外れたところに向けられた遠い懐かしさがあった。それは、顕好の有限の経験と知識から作り上げられた想像に過ぎなかったのだろうか? もはや彼女??にとって、それは全く重要なことではなかった。
「……ほんと? わたしのお姉ちゃんになってくれるの……?」
「はい、あなたが望むなら。でも、呼び方は何でもいいんですよ。お姉ちゃんじゃなくたって、わたしはレミちゃんのことが大事なんですから。ほら、おいで? 抱っこしてあげる」
“彼女”はなおも応えた。不安定になったレミはひとたまりもなかった。作りかけのアバターが瞼の裏で両手を広げ、レミは子供のように“彼女”に飛びついた。
「う……ぅぐ……うあ、ああああ……おねえちゃああん……」
――レミを活き餌として、姿と声をある範囲で自在に作れるソフトウェア環境を、自分の精神の内部に棲む何者かを捉えるアンテナとして使う。顕好とレミに分裂したことで多くの辛苦に遭った彼女たちにとって、「内なる他者」を野放しにしておくことは妄想癖では済まされない危険を意味していた。それは子供のごっこ遊びで作り出されるものと本質的に同じでありながら、数十年の人生の間に蓄積された知識と経験を糧に、遥かに複雑な情報の回路となって、やがて独立した輪郭を得て動き出す可能性のあるものだった。喩えるならそれらは、情報で満ちた無意識の海に棲む異形の魚だった。顕好は“彼女たち”を、いつか自力で陸へと上がってくる前に片端から釣り上げることを選んだ。
しかし、無意識の住人を釣り上げることはまた、この試みに果てがないことをも意味していた。なぜなら、彼女たちが人の形をとるのは、陸にある人格が望んだ時だからだ。人は宿命として他者を求め、心の欠けを鋳型として自分の内に他者を作り出す。そうして作り上げた仮想の人格が「人」と呼べるまでに成長するのなら、そこからさえも新たな他者は作り出される。現に高凪レミの人格の欠けたところが、彼女を庇護する誰かを求めたように。意識に上る人格が増えた分だけ、より多くの魚が人型をとって、無意識の海から浅瀬に引き寄せられる。だが顕好にはそれを止めることができない。レミをここまで育ててしまった時から。
ただ一つ方法があるとすれば、限りある脳に「人」を溢れさせ、もはや明確な人格として自らを保てないほどに一つ一つの情報を薄めることだ。人体の細胞の一つ一つは思考をしないのと同じように。顕好自身もいずれそのようになるだろう。そうなった時、この体を動かしているものは一体何と呼ばれるのが相応しいのだろうか?
顕好は言った。
「出てきてくれてありがとうよ。あんたの名前は?」
「んー……顕好ちゃんに、つけてもらいたいな」
顕好は考え込んだ。田舎の古い家の縁側で、レミを抱いて座る長身の女性を想像することができた。いや、もはや女性と呼ぶこともできない。望まれて在る、人の形をした何か佳よきものを総称する一つの言葉が古くからあり、VRSNSにも受け継がれていた。しかし顕好はそれとは違う、彼女一人を指す名前を、釣り上げた者の責務としてつけなければならなかった。
「…………“転風(うたかぜ)”…………」
「ふふ、“凪が呼ぶもの”、ですか? ありがとう。それでは、わたしは今から“転風”です」
「転風、あんたは怖いものがあるか?」
「うーん、ないと言いたいんですけど……あなたやレミちゃんが、ずーっと、ずーっとわたしのところにいるようになったら、それは心配かなって思います。でもわたしには、こうやって慰めてあげることしかできないから」
「……なら、あんたもいずれ、次のを連れてくるんだろうな」
「大丈夫ですよ。理由はありませんけど、きっと大丈夫。だってあなたもレミちゃんも、こんなにいい子なんですから……」
……
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