卵割 #5(メタバース連載小説)

 ――今日も、アバターを作る。
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 武居健斗(たけい・けんと)とは都内の通信設備会社に勤める24歳であり、この春の辞令で静岡支社への異動が決まっている営業部員である。
 その日、いつ戻ってこられるか分からない東京を満喫するために、麻布界隈や西武沿線をぶらぶらして野方の自宅に戻る途中の電車で、武居は大学時代のスキーサークルの後輩に出会った。感染爆発以来一度も会っていなかった、二つ下の後輩だ。酔うと周りにいい格好をつけようとして悪ノリするところがあるが、人のことをよく見ていて、メンバーの仲が(主に痴情のもつれによって)こじれた時には頼りにされる奴だったという印象がある。武居は車両の中ほどで吊革を?んで立っている後輩に他の客の間を縫って近づき、キャラを社畜からインカレ飲みサーの老害に切り替えて話しかけた。

「お? あっきーじゃねえの! おんまえ久しぶりだなあおい! 元気か?」

 後輩も既に武居に気づいており、へらっとした笑みで武居に応えた。普段着で、家電量販店のビニール袋を提げている。ということは、休日がある身分か。

「おー健斗さん、お久しぶりっす。いやあ、俺なんてもう引きこもりまくりっすよ。飲みにも行かなくなって、もうめっちゃ酒弱くなってますよ」
「わかるわー、リモートだとマジで飲み行かねえもんな。つーかあっきー会社どこよ?」
「あー……実は俺留年しちゃったんすよね。オンライン授業とか全然出る気しなくって……」

 今時そう珍しい話ではない。感染症の後遺障害によって授業どころではなくなった元同級生。人と会わない日々の中で生活の張りを失った同僚。年配の世代に比べれば自分たちは一人の時間に順応した方だと思うが、二年も続けば嫌気が差してくる。だが、ふらふら外に出てくる元気のある後輩には遠慮の必要もないだろう。

「お? おうおうおうおう、いいじゃんいいじゃんそういうの聞きたかったんだよ。そんで? 留年して何してたんだ?」
「いや……寝てたっすね。何してたかも思い出せないっす」
「不健全だなあおい、何かないのかよ? メシに凝ってたとか筋トレしてたとかよ? お前今四年だっけ? 就活はしてんだろ?」
「いやまあ、ちょっと筋トレしてた時期もありましたけど、もう最近は全然ですって。健斗さんは今何してるんすか?」

 ここで武居は違和感を覚えた。並んだ吊り革の下でこちらに半身を向ける後輩の、わずかに早口な口調と急な切り返し。何か言いたくないことがあると察しはつき、武居としては詮索はよしておいてやってもいいという気もあるのだが、サークルの呼吸としてはこういう隙は見逃さず拾うのが正しい。向こうも理解の上のはずだ。

「おうおう違うだろあっきー、日本男児が一人で部屋にこもってたらやることは一つだろ? はいもう一度どうぞ?」
「……」

 そして、気の利いた答えを返せなければ、

「よっしゃ。俺がリハビリに付き合ってやる。お前んちこの次だったよな。酒買いに行くぞ、留年生?」

 後輩の家は西武沿線の駅前繁華街を抜けた、オートロック付きの小洒落たマンションの二階にある。武居も学生時代に一度飲みに来たことがある。スーパーで酒とつまみを買い込み、袋を後輩に持たせて部屋に押し込む。酒代は武居が全額おごることで断りづらくさせ、袋は持たせることで「重かった分自分にも消費する権利がある、消費すべきだ」と錯覚させるテクニックである。もちろん後輩も知悉しているはずの卑劣なワザである。
 最寄り駅からの道すがら、後輩は武居やスキーサークルの今の様子についてしきりに聞きたがった。今は何の仕事をしている、卒論は何を書いたか、グループチャットに流れる案内以外に飲み会は開かれているか、山形のゲレンデは営業しているか。武居はそれに答え、返す刀で後輩の生活の細部を聞き出そうとし、後輩はその全てに愛想よく、しかし内容のない短文で返し続けた。もしかしてヤバい連中の尻尾にされているかもしれんと思い始めたのは早くもスーパーにいる時で、武居は内心でもしもの時の算段をしながら後輩の家に上がり込んだ。
 部屋は六畳と少しのワンルームで、男の一人暮らしにしては片付いている。玄関先には数個のゴミ袋が寄せられているが、マンションに専用のゴミ捨て場がないならこれは普通のことだ。洗面所をちらりと覗けばコップに歯ブラシが一本、女の痕跡はない。武居はそれらを横目で確かめていた故に、本丸の部屋の異常に気づくのが遅れた。
 後輩の部屋の壁は、全ての面がびっしりと、白いスポンジで覆われていた。

「……!!」

 飾りの類ではない。柄も組み合わせも何もない四角いスポンジは、天井の隅や窓にまで一面に敷き詰められ、外に何かを漏らさないことこそがその第一の役目であることを雄弁に語っていた。何かとは例えば悲鳴だ。足元を見れば床にも、デパートの子供の遊び場にあるような薄い発泡フォームが敷かれ、全体の印象としては一瞬病院の待合室を思わせる。そして、寒い。ひどく寒い。まだ春の始めだというのに窓際のエアコンは冷房に設定され、壁と床のスポンジは保温どころか外の温かい空気を締め出しているように思える。壁際にベッドはあるが、この部屋で眠るということをどうしても想像できない。
 冷蔵庫とさえ錯覚するその部屋に、熱源は三つしかなかった。
 後輩と、武居と、パソコンだった。
 それらは真っ白い部屋の荒涼さにいささかも抗えておらず――いや、それよりも、武居が目をやった先、電源の入ったパソコンの脇のスタンドにかけられた、明らかに人の頭に被せるためのバンドのついた機械、掌に収まるほどの奇怪なプラスチックの塊たち、モニターの前の大きなマイク。――これは、何をする部屋だ?

「あっきー、お前これ……もしかして、配……」
「――先輩、すいませんけど、今日は勘弁してくれませんかね」

 人間の言葉には聞こえなかった。目の前に立つ後輩が声を発した瞬間、それまでひそやかに回っていたパソコンの空冷ファンが突如として岬を吹く風のような不規則な叫びを上げ、一瞬前まで凍えるほどの冷気を感じていた皮膚の体感温度がはっきりと分かるほどに上昇した。それは一様な室温の「暑さ」ではなく、まるで大勢の何者かが突然至近に立って武居を囲んだような、濃淡のある異様な「熱さ」だった。動転し、床に後ろ手をついて後ずさった。視線は後輩から外すことができず、その視界には後輩の他に誰もおらず、しかし白い部屋を満たす空間そのものが種々の感情で武居を、じっ、と見つめている気配があった。

「これ、お酒はお返しします。マジで帰ってもらえませんか」
「――――!!」

 酒の袋を突き出す動作が、両腕で自分を絡め取ろうとするように見えた。武居はスポンジの継ぎ目に足を取られながら飛び上がり、色を失って玄関のドアにすがりつくと、粘つくような春の暖気の中を、溺れる者のように手足を振り回してマンションの階段を駆け下りた。
 それから後輩がどうなったかは、誰からも聞かない。

          ◆

 VRの寺の、仮想の墓場の片隅。
 墓には世界を去った者の名が残され、しかし、その主は今もこうして訪れては、自分の墓石に手を合わせる。去ること、留まること、蘇ることは、もはや彼女にとって何の違いも意味していない。その姿がワールドのギミックやバグでない証拠に、彼女の頭上には変わらずネームプレートが表示されている。

「――おかえりなさい、高凪レミさん」

 山門の軒下から、女が踏み出した。
 レミは鷹揚に振り向き、女に笑いかけた。黒衣の女は山高帽の下からレミを一瞥すると、眼鏡の奥の目を細め、面白いものを見たという表情で声もなく微笑んだ。
 レミは静かに告げた。

「……一度死んで、戻ってきましたよ。何とか折り合いがつけられたみたいです。わたしはVRで生まれましたから、もうしばらくはここで生きてみることにしたんです。ファンのみんなや座長にも、挨拶をしないとですね」
「望むようにするといいでしょう。あなたは最初の深淵を越えた。それに、あなたはもう知っていますよね? “彼女たち”はこれからも、このVRの中でもやってくると。彼女たちを釣り上げる時のあなたと、物理現実で人と接する時のあなたも、もはや同じではないでしょう?」
「そうですよ。顕好もちょっと分かれちゃったみたい。まあ、転風さんや帆鯨(ほさな)さんもいるし、わたしは今さら何人か増えたくらいで。周りのみんなには、わたし一人だってことにした方が楽かもしれませんけど」
「自分の内に無辺の海を見出す方は少なく、その海の住人を大気の中に連れ出す方はさらに少ない。それをして狂わない方となればなおさらです。しかしここVRでなら、いずれ誰もがその可能性に気付くでしょう。あなたが一つの名前を名乗ろうと、折節ごとに異なる美少女を知らしめようと」
「……あなたは前に、わたしのことを“幽霊”って言いましたよね? 顕好からすれば、そうだった時期もありましたけど……じゃあ今のわたしは、一体誰の幽霊なんでしょうね?」
「あなた以外の、全て。ですが、幽霊とは生と死の境目があって初めて可能な言葉です。存在と非存在を曖昧にしてしまったあなたには、別の呼び方があってもいいでしょう。そうですね、喩えるなら今のあなたは、一つが二つに、二つが四つに、四つが八つに、自らを割り裂いて増えていく受精卵――――“卵割”――――」
「そこから、何が生まれると?」

 黒衣の女は、微笑んだまま答えなかった。
 桜舞う境内で、二人はしばし向かい合い――やがて鐘が鳴った時、彼女たちの姿は墓前の一片の花弁を残して、桜の帳に紛れるように消えていた。