Aleph #1(メタバース連載小説)

 いつもの帰り道。最寄り駅から十分、川とも呼び難い細い水路に沿った夜道を歩いて帰る。商店街のある方とは反対側の、マンションとスーパーとコンビニしかない住宅地。暗く、道は細く、遠くで時々聞こえる車の音が通り過ぎると、下の水路からかすかに這い昇ってくる水音だけが後をついてくる。
 私は歩きながら後ろを振り返り、誰もいないのを確認し、そして正面に向き直って、私の前に向かって伸びていく水路の曲がるあたりを見た。街灯もまばらな細い道では、前から誰かが来ていてもよほど近くまで来なければ気付かないに違いない。
 夜の九時半である。
 マンションとスーパーとコンビニこそはこの住宅地の全てであり、それ以外のものは何もいらない。一つでも欠ければ私は帰りが遅くなった日にひもじい夜を過ごすことになる。さもなくば、毎食カップラーメンで体を壊すか、駅の反対側の商店街で毎晩外食することになり、退勤後にさえ赤の他人との不毛な会話に神経をすり減らして早晩心療内科のお世話になるだろう。今もスーパーの袋を右手に提げ、なかなかに健康的であると自負している夕飯の材料を買って帰るところだ。
 道に沿っている水路はいくらか行ったところで左に折れ、そこからすぐに暗渠に入っている。私はそこに差しかかる。左手には水路、右手にはこの地区の古い住人の家々、そしていよいよ道が水路と共に折れるというところにそれがある。私はなるべくそちらを見ないようにして通り過ぎようとする。
 背の低い鳥居の立った、小さな祠である。
 それ以上の詳細の描写は差し控える。私としてはまじまじと見ていたくはない。低いとは言っても人がくぐれる程度の大きさはあり、犬小屋くらいは置けるほどの空間がそこにはある。家と家の間に空いた空白。怖いのとも気味が悪いのとも違う、言い表すならそう、気まずいものをふと思い出してしまうような感覚を、私は毎晩ここを通る度に覚えるのだ。
 何か仕掛けが隠れているような――――
 誰かがそこに立っているような――――
 ここに住み始めた頃はそんなことは思いもしなかった。奇妙な思い込みを植えつけられたのは、きっとVRのせいなのだ。

          ◆

 六畳間。スーパーの袋を下ろし、なかなかに健康的であると自負している夕飯を――作らない。時間がギリギリなのだ。十時を前に、私はエアコンをつけ、パソコンの電源を入れ、使い込んだゴーグルをかぶり、両目のレンズに映るメニューにコントローラを向けて起動ボタンを押した。
 短いロード画面を経て、私の前にホームワールドであるツリーハウスの一室が広がる。何もない部屋だが、ほぼ全てのワールドに共通してあるものだけはここにもしっかりとある。鏡だ。皮膚や筋肉の感覚を再現できないVRにおいて、自分がどう見えているかを確認する方法は人に聞くか鏡を見るかしかない。不便に思いつつも日課として、大きな鏡に自分のアバターの姿を映してみる。
 人間大の、直立する蛙である。
 頭と前足が動くことを鏡で確認してから、知り合いとして登録したユーザーの一覧を開く。一人から数人のグループが、数十のインスタンスに散らばっているのが見える。インスタンスとはボタン一つで作れる「使い捨ての部屋」のようなもので、ここに豪邸でも宇宙でも何でもいい、既製のVR空間のデザインデータ(ワールドと呼ぶ)を展開することで、ユーザーが中に入れる空間となる。そしてこの今、午後十時から午前一時の間こそはVR世界のゴールデンタイムであり、仕事や夕食を終えた日本人が続々とネットの仮想空間に集まって遊び始めるのだ。私が同僚の恨みがましい視線を尻目に意地で九時に退社するのも、この時間帯の活気に身を投じるためだ。そういう奴はこの世界には決して珍しくない。
 知り合いの数人が固まっている場所、「人外境」という名前のインスタンスを選び、参加する。
 画面の暗転の後、周囲は木造の町屋が並ぶ京の大路に変わった。夜で、祭りでもない普通の日で、大路に面した町屋の格子戸はグラフィックの負荷を下げるために全て締め切られている。私は迷わず左手のコントローラを操作して大路を突き進み、何度も来た経験を頼りに突然曲がる。何屋とも分からない二階建ての町屋の間に、人が一人通れるくらいの隙間があるのだ。この隙間の幅は見かけだけのもので、両脇の建物には接触判定がなく、体の大きなアバターでも通れるようになっている。細い隙間の突き当りには小さな鳥居がある。その鳥居の向こうに、ワールド内のどこか別の場所へ繋がるワープゾーンの薄青い光が見え、
 耳が、
 次の瞬間には、先客はワープゾーンの中に姿を消した。一瞬見えた姿は知らない顔ではない。このワールドでよく会う、体中に包帯を巻きつけた狐のアバターを使っている奴。名もない神社を棲処にするのがやり過ぎなほど似合う一本だけの尻尾。
 私はしばし鳥居の前に立って奥歯を噛んだ。
 VRでは、こういうことはよくある。つまり、神社に狐などというありきたり過ぎる取り合わせは、ありきたりであるが故にVRの華として繰り返し繰り返し私の前に現れる。このワールド「人外境」にしたところで、鳥居をその入り口にすることには何の目新しさもない。仮想空間がお伽話を題材にするのは不思議なことではない。
 しかし現実は違う。
 鳥居に狐はいない。
 VRで何の不思議もなく受け入れていることも、現実でも起きる気がするようになっては困るのだ。
 私は包帯狐の後に続き、ワープゾーンに踏み込んだ。
 途端、周囲は一転して深い森に囲まれた渓谷に変わった。そこにひしめいて好き勝手に話し込んでいる数十の参加者が、近い方から順にゴーグルの液晶に描画されていく。
「どうもどうも、なにさま蛙さん。一昨日ぶりですねえ」
 私の到着に気付いて声をかけてきた奴がいる。何とかいう古代魚の、嫌にリアルな姿をしたアバターを使っている、私がVRを始めて間もない頃からの知り合いだ。わざわざ生物学の論文から古代魚の3Dモデルを起こして自分でこの不気味なアバターを作っているのは理解に苦しむが、社会に馴染めないという一点において私と気が合った。
 私は古代魚に体を向け、現実の部屋の座布団に腰を下ろした。頭の位置が下がったのでVRでは四つん這いのような姿勢になるが、元より蛙のアバターであるから違和感はない。
「一昨日……? いや、あの時はもう日付が変わっていたから、昨日のことだ」
「そうそう、昨日ぶりですねえ。どうですか、あれから何か面白いことありましたか」
「あるわけないだろう。労働だぞ。新規顧客の開拓と言うがな、そんなものが今時どこにいる。今ついてるジジババから搾れるだけ搾るしかないんだよ。上も分かってるはずなんだが」
「大変ですねえ。僕はねえ、またちょっと同居人が暴れまして、まあまた警察呼んで預かってもらったんですけど、帰ってくるまでのしばしの平穏ですねえ」
「またか。大変だな」
「いえいえ、僕はなんやかんや一人相手にするだけで済んでますから、なにさま蛙さんみたいな社畜生活は想像もつかないですねえ」
「そうだな……」
「ですねえ……」
「…………」
「…………」
 古代魚が沈黙してしまったので、ここで読者諸賢に若干の身の上話をしよう。
 私がVRを始めた頃は、ちょうど立体映像技術への投資が始まった時期で、世界の再創造だの理想の自分だのという謳い文句が連日ネットに飛び交ってはあの手この手で高い機材を売りつけようとしていた。当時の私はまだ若かったので、連中の宣伝にまんまと引っかかってパソコンとVRゴーグル一式を揃えてしまった。そのこと自体には後悔していないが、連中の掲げた理想が誇大広告だったことだけは今ならはっきりと言える。似たような境遇の奴らと傷を舐め合うことの他には、私たちの生活の苦しみはVRによって何も解決しなかった。
 誰が言ったか「ソーシャルVR」。だが結局は、VRもゲームに過ぎなかったということだ。
 この「人外境」、不定期に開かれている非人間型アバターの集会には、そういう人間社会に安住できない連中が集まる。外見を選ぶことのできるVRでは、アバターはそのまま自分のスタンスの表明になる。人型のアバターを使うことは、人の世界の慣習を持ち込むという表明に。人でないアバターを使うことは、人のルールから外れることの表明に。しかし私に言わせれば、人外のアバターを使える連中はまだ恵まれている方だ。決して多数派ではない動物や怪物や無生物のアバターを自分で3Dモデリングソフトで作り、あるいは人の作ったものを買ってきて個性を出すように改変できるだけの、根気と暇のある連中。何より、ネットで情報を集め、なくて死ぬわけでもないのに五桁のVR機材を買い揃えられるだけの頭と金のある連中。本当に生活に困窮している奴はVRなどに来ない。
 古代魚も既婚者だ。奴が「同居人」という言い方をしていなかったなら、私は奴とも付き合っていなかっただろうと思う。
「――そういえばですねえ、あれ聞きました? 『言霊風俗』の話」
「はあ?」
「僕はSNSで聞いたんですけどねえ、なんかAIで、文章だけから人間型のアバターを作れるワールドがあるって。いや、別に風俗には興味ないですけど、そういうのがあったら人間に偽装するときに便利かなあって」
「そんなもの高が知れてるだろう。どうせ服の柄を変えられるだけじゃないのか?」
「それがなんか、顔とか体型とかも入力によって違うらしいですよ」
「3Dモデルを作れるってことか? できるのかもしれんが……俺は何も作りたいものなんかないぞ」
 事実だ。今使っている蛙のアバターにこだわりはないが、理想の自分と言われたところで思いつくイメージもない。自分の個性やら好みやらを明確に持つこと自体、既に贅沢な生き方だ。もしかすると私にも昔はそういうものがあったのかもしれないが、現実を生きていくためには邪魔になる。
 それに、ここの住民の理想がいかに凡庸で自堕落な代物か、三ヶ月も遊べば嫌でも分かろうというものだった。VRが世に出る前と同じように美少女キャラクターに逃避し、プロの芸能プロダクションが乗り込んでくればひとたまりもない猿芸を有難がり、何もしなくても褒めてくれる相手に囲まれる生活。私に言わせれば、奴らの言う「仮想空間がもたらす自由」は井の中の蛙であり続ける自由だ。奴らの同類であるなどと認めたくない。
 私を誘いたかったらしい古代魚が諦めてくれたと思った矢先、横合いから話に割り込んできた奴がいる。顔まで金色の毛に覆われた直立する狐。冬毛をあふれさせる包帯。先ほどワープゾーンで見た奴だ。近くで私たちの話を聞いていたらしい。
「おっ、例の言霊風俗っすか。自分も気になってたんすよね、本当だったらシンギュラリティも近いと思いません? どうっすか、一緒に行きませんか」
 包帯狐は私や古代魚と違い、肉球のついた両手を目まぐるしく動かしながら表情も動かし、アバターの頭・胸・腰・両脚の関節を滑らかに揺らしている。全身の関節にセンサーをつけ、現実の体の動きをそのまま反映しているのだ。身振りに自信のある人間。これもまた恵まれた側の人間だった。
「いや、俺はやめておく。人型なら俺には関係ない話だ」
「すいませんねえ、僕もお薬飲んじゃったんで、この後はちょっともたないと思います」
「あ、いいっすよいいっすよ、自分も今すぐってわけじゃないんで。また機会ある時に行きましょ」
 包帯狐は手を振って離れた。話したいことだけ話して去っていく奴。断られるのに慣れるほど、人を巻き込む経験を積んできた奴。悪人ではないことは分かっているが、私はそういう奴とは距離を置くことにしている。
「さすがですねえなにさま蛙さん、やっぱ人間型は僕らには無縁な話ですよねえ」
「ああ、そうだな……猫になりたい。だが猫も似合わないんだ」
 それからは、古代魚と他愛もない話をした。同居人の病気の話、睡眠薬の効きの話、親がはまっている陰謀論の話、奨学金の返済の話。岡目八目とはよく言ったもので、自分の境遇はどうにもできないくせに、互いに相手のことになるとあれやこれやと解決策が浮かんでくるのだ。そして相手の出してくれた案を、今日VRをログアウトした後に一つも実行しないであろうことも互いに分かっていた。
「人外境」の集会はいつもの通り一時間で終わった。普通、自分の容姿へのコンプレックスから解き放たれるとされるVRでは、人が集まれば必ずと言っていいほど集合写真を撮る。しかしこの集会にそれはない。以前、倒れたバイクの姿をした主催者に聞いてみたところでは、
『ああはい、それですか。自分はですね、自分の生きた証を残したくないんですよね。撮ること自体は禁止じゃないんで、各自で撮ってもらったら十分かなと』
 私は自分自身にはそこまで絶望していないが、集合写真を撮りたいというほどでもない。古代魚が一足先に姿を消すと、私もメニューを開いてホームワールドに戻った。ワールドを去る時にはワープゾーンをくぐる必要はない。
 ホームでゴーグルを脱ぎ、夕食の用意に取りかかった。
 夕食を作った。五分で食べた。
 シャワーを浴び、ウイスキーを瓶から飲んだ。
 起動したままのVRに戻り、今夜の寝床を探す。知り合いのいくらかはまだログインしているが、今日は一人でいたい。用のある奴がいれば、寝ている間に書き置きを残しに来るだろう。私はメニューから新しいインスタンスを開き、人が勝手に入ってこられる設定にしてから、参加のボタンを押した。
 暗転。
 私が選んだのは夜の森を再現したワールドだ。蛙の姿のまま森の中の獣道を進んでいくと、崖の下に掘られた浅い洞穴に辿り着く。その入り口の、月明かりと暗がりの境目のあたりに寝転んで、現実の体も床の布団に横になる。横たわった姿勢では、人間の体でも蛙の体でも視点の高さはそう違わない。
 私はこうして、VRの中で寝るのだ。
 VR。ろくでもない世界だ。矮小な蛙の棲む井戸が果てしなく並んだ、現実逃避の世界。救いもない。食い扶持もない。こんな所にいても物事はよくならない。
 それなのに、私はもう二年もここにいる。
 夜な夜な井戸を渡り歩き、畸形の蛙を訪ねて回る楽しみを、振りほどくことができずにいる。

次に続く・・・

【編集部注】
この作品はフィクションです。物理現実ならびに仮想現実の実在の人物・団体・サービス・ワールド等とは一切関係ありません。