Aleph #3(メタバース連載小説)

 ホームワールドで一人になっても、動悸がしばらく収まらなかった。今しがた見たもの、というより、今しがたいた場所にはちきれんばかりに満ちていた人間の欲望と、それを引き起こした製作者の悪意なき悪が、読み込み途中のワールドのように私の思考を圧迫し、どこから処理していいのか分からないでいた。初めてVRゴーグルをかぶってVRにログインした日の夜もそうだった。逃げ場のないVRの視界で慣れないものに接し、慣れない自分の姿を人に晒した興奮。しかし今日は、これから新しい世界が開けるという期待も、私を導くインフルエンサーの甘言もなく、ただ解釈不能な出来事の解釈不能な戸惑いだけがあった。
 言霊風俗。欲望を具現化する。
 欲望の具現化。VR住民のそれは美少女に偏る。
 それだけだ。最新技術で何をするかと思えば、情けないほどに単純で動物的な人間の本能。しかし人の欲望を具現化した美少女の何を、私はそれほど恐れたのだろう。包帯狐たちの豹変か。キャラクターが乱造される異様な光景か。そうではないはずだ。
 誰かと話がしたかった。話の通じる誰か、VRの住人ではない誰かと。特に用事も思いつかなかったが、コンビニに行くことにした。
 エレベーターは三階にあった。四階に上がってくるまでの間に私を待たせることはない。私は脅迫するような目つきでエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押し、階数表示の液晶を睨んだままエレベーターが降りていくのを待った。途中で止まらず一階の扉が開いた時、エレベーターが私の命令に応えて他の客を人払いした、という想像が意識をよぎった。
 コンビニまでの道すがら、私は何度かスマホを取り出しかけて、しかしその度に気分が萎えてポケットに戻した。SNSなりチャットアプリなりで古代魚たちの様子を確かめたかった。しかし出てくるものがどうせまだ入り浸っている証の沈黙か、私のように事態に呑まれているゆえの絶句か、あれだけのものに居合わせて平然としていられる奴の軽口かのどれかであることを思うと、見ても仕方がないような厭らしさが胸にこみ上げるのだった。
 スマホが震えた。
 手首を返して、またポケットにしまったところだったそれを点けてみると、このごろ珍しくもないスパムメールだった。ハロー、私はドバイに住む未亡人で、夫の遺した資産が七百億ドルあります。私たちには子供がいません、ですから私は先進的なプロジェクトにこのお金を寄付することにしました。それで例の言霊風俗っすか、本当ならシンギュラリティも近いとあなたは理解するでしょう。その本質は人工知能でも嗜癖の充足でもなく、言葉とキャラクターを一対一で対応させることにあります。あらゆる言葉を強引にでもキャラクターに変換することができるなら、その逆、人型をしたあらゆるものは何らかの言葉の擬人化であるということも。その様式として美少女が選ばれたのは宇宙的な視座から見れば偶然で、今という時代から見れば必然だと言えるでしょう。ほら、
 その時、私の視界の左隅のあたりに違和感を感じた。何か色合いの違うものがそこにある。スマホに落とした視線の左上の隅、わずかに顔を上げれば確かめられる位置、街灯のない真夜中の道に浮かぶように、あるいはひときわ沈み込むように、
 小さな鳥居だった。
 悲鳴すら上げられなかった。代わりに規則正しい指令を断ち切られた両足が、アスファルトを噛んで二本ともその場に硬直した。呼吸が浅い、今も視界の左隅のあたりにあるものを紛れもなく私は知っている。それは赤い鳥居であり、犬小屋ほどの空間であり、その奥にある小さな祠であり、私が毎晩見ないようにして前を通っている、川の曲がり角に向かって口を開けている、住宅の間にできた歴史の亀裂のようなポケットだ。名前は確か、いや、名前など知らない、どうして名前などが今気になるのだろう? 首がそちらに引っ張られていく。私の意思のはずなのにそれを止められない、鳥居の上には扁額があるのが普通であり、そこには神社の名前が書いてあるのが普通だ。
 見ない方がいい。
 駄目だ。理由なく湧いた「この神社の名前は?」は無視する理由もまたなく、既に動き出した首の筋肉を自分で止めることもできない。視線だけが辛うじてスマホに踏み止まろうとする。しかしそれすら、顔が持ち上がるにつれて引き剥がされつつある。
 見ない方がいい。
 なぜ。見てはならないものがそこにあるのか、それとも、今の私が路傍の神社ごときで動揺するような有様だとでもいうのか。私はまともだ。VRで現実逃避している連中よりも、時代の見えていない職場の連中よりも、冷静で、中立であり、物事を俯瞰し、虚妄に踊らされず、孤独に耐え、よって全てを暴いて直視する権利と能力がある。
 見ない方がいい!
 その時には既に、私の頭は神社の全容にまっすぐ向いていた。赤く塗られた粗末な木製の鳥居があった。赤い塗料は厚く塗られている割に、造りは丸太そのままを縦横に組んだような中途半端な粗末さであり、鳥居の上にあると思った扁額もないほどだった。私は安堵した。鳥居の奥には暗い空間があり、その隅に白く浮かび上がるものがあった。最初に感じた、違和感のある色合いは鳥居ではなくこれだった。鳥居の内側の空間に立てられた、小さな白木の看板だった。

『恋ヶ淵稲荷』

 何かが、起動した。
 看板にはこの神社の由来記が、数十行にわたって墨書されていた。夜闇の中、その文章は道路に佇む私の言語野にするするするするするするするすると滑り込み、分解と再構成を経てひとつながりの出来事のイメージを形作った。“入力”が通った。整形された意味の塊は視覚野に投げ返され、地上のいかなるコンピュータをも凌駕して人型イメージの処理に特化したシステムに入力された。読み込みの待ち時間はないに等しかった。『恋ヶ淵稲荷』が生成された。それは正確には『恋ヶ淵稲荷、古くは水神社と云い鎮座年は不明なるも昭和四十九年に町会一同を願主とし稲荷神を合祀して今に至る、口碑に曰く笹塚川の東へ曲がる処は深い淵となっており或る時近住の娘何某、隣郷へ嫁ぐのを嫌って淵へ入るもそれは私にとってもはや重要ではない、なぜなら全ての情報が一つに織り合わされて少女の形を成したものを、私は今ありありと見ているのだから。
 恋ヶ淵稲荷は言った。
『あーあ、やっと声かけてくれたね』
 私は言った。
「全くだ。すまんな」
『いいってことよ。もう怖くない?』
「怖くはない、ような気はするな。俺はついにおかしくなったのか?」
『さあね。そんなこと気にする方が変だと思うけどな。いいからほら、寄ってってよ。あなたよそから来た人でしょ? あなたみたいな人が通ってくれたらあたしも報われるってもんよ』
「あたしってのは、そこの川に身を投げた娘と間男のことか」
『いやあ、あたしはあたしよ。ささほら入った入った、手だけ合わせてくれればいいから』
 私は首をすくめて鳥居をくぐり、祠の前で音を抑えた二礼二拍手一礼をした。普段神社にお参りする方でもないのに、長い間目を閉じていた。私の手を引いてきた恋ヶ淵稲荷はそのまま私の正面に座って、小さくなったわけでもないのになぜか祠の中に収まっている。目を閉じていてもその様子が見える。恋ヶ淵稲荷は私が手を合わせているのにも構わず話しかけてくる。
『あなたのことは知ってるよ。毎日ここ通るでしょ。お仕事? 大変だねえ、いや見ればわかるわかる。なんか思いつめた顔してるもん』
「否定はしないが、大きなお世話だ。あんたも知ってるだろうがな、生きた人間には色々あるんだよ」
『ふふん、うらやましいかい? ごめんねえ、今じゃしょぼい川でさ。もう死ねないよねえ』
「ナメるなよ。俺が労働ごときで死んだら世界の損失だろうが。神ならせいぜいそうならないように見守っておくんだな」
『神サマねえ、まあそういうことにしておこうかな。ほら、そろそろいいんじゃないの? 帰って寝たら?』
 まったく自分勝手な奴だった。私は手を下ろし、後ろを向くような隙間もないので後ずさりをして鳥居を出た。当然のように道路には誰もおらず、通る車もなく、恋ヶ淵稲荷が祠の前から私に手を振っている。
『また明日ね』
「ああ、また明日」
 手を振り返して、家への道を歩き始めた。人と話せたので満足していた。途中の道で、私はスマホを出さず、しかし何を考えるでもなく、表情も感情も抜け落ちた夢遊病者のような面持ちでただただまっすぐに足を動かした。
 マンションに着くと私が出た時のまま、エレベーターが一階にいた。
「……少しは気が利くようになったか?」
『うるっさいな、お前のためじゃねーよクソ野郎……』
 エレベーターは不機嫌な顔のまま扉を開け、私と一緒に四階へと上がっていった。「いつもそうしていればいいんだよ」『うるさい』エレベーターを出て、自分の部屋のドアを開け、六畳間へと一直線に繋がっている玄関に足を踏み入れた。私がこのマンションに越してきてから四年になる。健康には気をつけている方だが、その他の生活習慣は学生の頃からほとんど変わらず、服は脱ぎ散らかしているし食器は料理の前にしか洗わないしゴミは溜まらなければ出さない。人も呼ばない独身の一人暮らしならそれで困らないのだし、何より暇がないのだ。だから、私の部屋には恒常的に物が散乱していて、玄関からは散乱した物たちが一望のもとに見えた。
 物が口をきいた。
「うっ…………!!」
 左右離れた靴が、洗濯機の中の服が、台所のゴミ袋が、風呂場の前のマットが、冷蔵庫が、テーブルの上のショットグラスが、床のワイシャツが、通勤鞄が、床に敷いた布団が、枕元の腕時計が、窓のサッシに干した洗濯物が、ネットショッピングの空箱が、花粉症の薬が、照明のスイッチが、コルク抜きが、エアコンが、
『おーい、クモの巣張ってんですけどー』『毎日洗ってもらおうなんて贅沢ですよね……』『もう少しここにいていいってこと?』『男の足は嫌だなーとか、全然思ってないし?』『そろそろ強にしないと冷えないよ』『たまにはラッパ飲みじゃなくってさあ』『せめてハンガーにかけるくらいしなよ』『昔の書類とか詰め込みすぎ』『先週末には干すって言ってたよね?』『電池、大丈夫?』『あーあ、また生乾きですよ』『片付け、手伝ってやってもいいが?』『また飲み忘れたね』『もうちょっと頻繁に押してほしいんだよね』『最近安いウイスキーばっかだし、私いらないのかな』『この程度で冷房に頼るな、軟弱者』
 目に見える部屋は静かだった。一人暮らしの部屋で、動くものは何もなく、エアコンの風が平坦な音を立てていた。しかし、言霊風俗と恋ヶ淵稲荷から帰ってきた私の視聴覚を通り抜けた瞬間、部屋を形作っていた数えきれない物たちは一斉に人のような“気配”を露わにし、譲り合いもせず私に向かって口々に言葉を発した。その“言”の奔流は生暖かいつむじ風のように私にぶつかり、私の頭の中で渦巻いてひしめいた。
「お、ぅわあああ何だちょっと待て!? やめろ! やめろ!」
 私は床に手をついて叫んだ。物が視界から追い出されると、ある物たちは幾分かおとなしくなり、またある物たちはさらに大きな声で騒いだ。思考を圧迫され、酔っ払いが「酔ってない」と繰り返す時のように自分でも統制できない言葉を呟きながら、床を手探りして部屋の中へと這って進んだ。
「待て、待て、待ってくれ、だから待てって、いや待て、ちょっと待て、待て、待てよ、」
 六畳間の中ほどに辿り着き、布団の端をつかんだ。布団が『何? 痛いんだけど』と言った。飛び退いて部屋の隅に転がり込むと、抜けた髪の毛と埃の渦巻いている床が『いい加減に掃除しなさい』と言った。ますます慌てふためいて、この声たちから距離を取れる場所を探した。テーブルの下、窓際、柱の陰、
「!!」
 柱の陰には、パソコンがあった。
 破れかぶれで飛び出した。布団を踏みつけ、服を押しやり、VRゴーグルに飛びついて引っつかんだ。ゴーグルは何も言わなかった。パソコンのスリープが解除され、私は無我夢中でVRを立ち上げた。視界がゴーグルによって遮断され、十数秒のロードの後には、鬱蒼とした夜の森のワールドに入れ替わった。
 VRの森は、息をひそめていた。
 この森は森全体が“一人”だった。私は息も絶え絶えに、いつも寝る時に使う崖の下の洞穴を探した。森はのろのろとそちらの方向を指差し、『朝には立ち去りなさい』とだけ言った。私は蛙の姿で獣道を進み、月の位置からの光線に照らされる洞穴に辿り着いた。手探りでコントローラに予備のバッテリーをつけ、月光と影の境目に横になった。床が何か言ったが、ひどく遠くに聞こえた。
 ようやくの静寂だった。
 横になった途端に疲労が襲いかかってきた。思えば長い一日だった――古代魚の件で朝から落ち着かなく過ごし、言霊風俗で悪いものを見せられ、気になっていた鳥居と話をし、挙句にこれだ。私の身に何が起きているのか考えたかったが、今は気力の限界だった。森が静かに佇んでいるのを遠目に、私はたちまちのうちに眠りに落ちた。

次に続く・・・