Aleph #4(メタバース連載小説)

 スマホが遠くでアラームを鳴らした。それは私には『起きろ、起きれば、起きる時』と聞こえた。
 体を起こして、ゴーグルを脱いだ。
 カーテン越しにぼんやりとした光の射し込む、六畳間がそこにあった。私は布団で寝ておらず、片足はテーブルの脚に引っかかっておかしな角度で凝り固まっており、床から見上げた部屋はひどく静かに散らかっていた。
 ――誰の部屋だろう――
 誰? その途端に部屋の静寂から声が浮かび上がってきた。部屋の隅からも真ん中からも、私の目についたものがことごとくそれで目が覚めたかのように、私に何かを伝え始めた。忘れたの? 私がいるでしょ、失礼なやつ、もう一緒にいてやらない――――
「待て待て待て! 待て、一旦落ち着いてくれ! 分かった、分かったから!」
 私は思わず声に出して叫んだ。何に向かって話しかけているんだ、と一瞬思ったが、聞こえる気がしてしまうものは仕方がない。私に応えたものか、物たちの声は急にトーンを落とした。その隙に、私も私の気分をとりあえず声に出すことにした。
「そう一度に言われても困るし、全部には応えられん。最善は尽くすが、あまり期待しないでくれ。先に謝っておく」
 これは正しい選択であったらしい。しばし、考え込むような気配があった。もしかするとそれは私自身が物たちの扱いについて考え込んでいる時間だったのかもしれないが、代表して答えたのは床のワイシャツだった。
『はいはい、分かったわよ。ともかく行く準備したら?』
 川沿いの道を、駅に向かって歩いた。川の曲がるあたり、古い家と家の間には恋ヶ淵稲荷がある。以前はどことなく気味の悪さのあったこの場所も、今は通り過ぎざまに挨拶をすることさえできた。
「よう」
『……』
 沈黙が返事だった。それで、寝ているのだと分かった。どうせ夜に通る時には起きているはずだ。両隣の家が『あらお友達?』『隅に置けないわねえ』と冷やかした。
 駅に近づくにつれて、人間の姿が増えてきた。人間が周りにいる間は人間のことだけを考えていられた。しかしひとたび電柱や、ガードレールや、改札機に意識を向けると、それらはやはり“いて”、思い思いの何事かを私に話しかけてくるのだった。それは私がしている考え事に関係する内容であったり、全く関係ないことであったりした。しかしその内容は総じて不平であり、私に何かをするよう求めてくるものだった。
 それも、電車に乗り込むと聞こえなくなった。通勤列車の車内はあまりにも人間で満たされており、他の物の声が聞こえるような余裕はとてもなかった。私はこの間に、自分に何が起きているのかを考えることにした。
 昨日恋ヶ淵稲荷に寄ってから――正確には恋ヶ淵稲荷の由来記の看板を読んだ時から、私には人間ではない物たちが話しかけてくるような感じがしている。本当に音としての声が聞こえるのではなく、頭の中にメッセージを伝えられているような感覚であり、それが言葉のように明瞭に受け取れる時もある、ということだ。そのとき話しかけてくる物たちにはまるで人間のような感情があるかのように思え、ほとんどの場合は姿も声もあるわけではないのに、一昔前に流行った擬人化ゲームのキャラクターのように、全て少女であるという確信がなぜかある。そして、私はこれが私の頭の中だけで起きている幻聴の類であり、実際に物たちはそんなことを言っていないということを理解してもいる。ただ、「聞かねばならない」という強迫観念のようなものが、昨日からずっとあるのだ。
 物が喋らないと、なぜ言える?
 例えば知らない外国語で話しかけられた時、意味は分からなくても何かを伝えられているということは分かる。声のないテキストだけのメッセージでもそうだ。あるいは非常口のマークを見れば、そこが出入り口であることは察することができる。どういう意味に解釈するかはこちらの都合であるにしても、私たちは人に限らないあらゆるものから様々な形で情報を受け取っている。昨日私がエレベーターに怒鳴り散らしたのもそうだ。私の待っているエレベーターが意味もなく止められたのを見て、そこに悪意や怠惰が働いているような気分になった。ただ情報が伝わるだけでなく、その情報を意図を持って送り出した何者かが発信地点にいると考えるかどうか、それが今の私と他の人間たちを分けているものではないかと思う。
 問題は、聞こえすぎると困るということだ。昨日の夜は特にひどかった。寝て落ち着いたのか、今朝はまだおとなしかったし、私の都合をはっきり言ってやるのもいいようだ。しかしいつもそうできるわけではない。上手いいなし方を見つけなければならない。つまるところこれは私の気のせいで、爪を噛む癖と同じようなものなのだから。
 人間で埋め尽くされた車内は、それを考える数少ないチャンスだ。
 そう思った。
 電車がカーブに差しかかった。背中を向けている方向への遠心力が体にかかる。吊り革にありついている奴など一握りで、椅子に座れている奴のことは考えない。乗客どもは一斉に同じ方向へと傾く。流れに逆らわない、逆らっても疲れるだけだからだ。
 電車はカーブを抜けつつある。
 体にかかる力が逆向きになり、前後左右の乗客と一緒になって押し戻される。元いた位置を越えて扉側の客に押しつけられていく。さっきまで私の背中の下にいた連中が、今度は背中に覆いかぶさってくる。この時もやはり流れに逆らわない。
 電車がカーブを抜けた。
 体にかかる力が逆向きになり、扉側の客から圧力が玉突きのように跳ね返ってきた。それでようやく私は元の位置に戻る。僅かに通り過ぎた分の勢いが再び車内の客へと戻っていく。周りのろくに見えない隙間に挟まっていても、前と後ろから交互に伝わる圧力だけで、隣の客が、その隣の客が、車両の端の客がどうなっているのか手に取るように分かる。分かってしまう。それは液体と化した客どもの作る一塊の波であり、名付けるならば、
 通勤サラリーマン波動。
『――楽しいね、あはは』
 聞こえてしまった。
 水槽を傾けたような波は車両の中を往復し、乗客一人一人の寄せ集めとは決して同じでない新しい“存在”として私の感覚の中に浮かび上がった。不用意にも私がつけてしまった名前を核に、少女の形を取った。少女の形を取った『通勤サラリーマン波動』は私に向かって声を発した。
『もっと揺れてほしくない? 止まるのはもったいないじゃんね』
 喋る通勤サラリーマン波動の中の分子の一つとして、こうして声を聞く私がいる。わけが分からなかった。それ以上に私を戦慄させたのは、人間で満ちた電車の中にも全く安息はない、それどころか、人間からさえも新しく少女が立ち上がってくるという事態だった。硬直する私の周りで、ひしめく客のネクタイが、電光掲示板が、電車のそれぞれの車両が、少女の姿をとって口を開きつつあった。

 今日は早く帰ることができた。七時を回ったあたりで部長が私に向かって「集中力を欠いているようだ」(実際よりも遵法的な表現でお届けしている)と言い出し、ややの押し問答を経て八時に退勤の運びとなった。
 満身創痍だった。
 取引先に電話をかけている時間が癒しになったのは初めてだった。オフィスにいる間中、机やらクリアファイルやら、周りにある細々したものがひっきりなしに私に話しかけ続け、その度に私は頭の中で「待て、待て、分かったから」と彼女たちを抑えねばならなかった。
 私は川沿いの道をふらふらと歩き、恋ヶ淵稲荷に差しかかった。
『お、やっほー……ごめん、もしかして今日はヤバい?』
「……すまん、明日にしてくれ……」
 気のない返事をして、またふらふらと歩いてマンションに辿り着いた。エレベータは三階にあったが、わざわざ一階で待っていられるよりも気を遣わずに済んだ。自分の部屋のドアを開けると、散乱した物たちが一斉に「ざわっ!!」という勢いで騒ぎ始めた。
「あーあーあーうるさいうるさい! やかましいぞお前ら! VRだVR! クソ!」
 一日中「物の声」の相手をして、さらに分かってきたことがある。比較的おとなしい物というのがいて、それは例えばスマホ、パソコン、書類、本などだ。考えてみればこれらの共通点はすぐに思いつく。最初から明らかなメッセージを発しているもの、あるいはメッセージを一方からもう一方に伝えるために存在しているもの。そして、もう一つ注目に値するのがVRだった。昨日私が寝た森のことから察するに、VRの中で見るものはあまり喋らない。これはワールド単位で明確な名前がついていて、しかも作者が明らかになっているからではないかと思う。想像力が刺激されなければ声を聞こうという強迫も起こらないのだ。ともあれ私は静かな場所に行きたかった。そして今の私にとって、静かな場所とはVRの中にしかないのだった。
 パソコンの電源を入れて、VRゴーグルをかぶった。
 ホームワールドでメニューを開き、知り合いの一覧をざっと眺めた。古代魚が一人で宇宙船のワールドにいた。そのうち他の誰かが来るかもしれないが、今のような窮状を打ち明けられる相手は古代魚くらいしかいない。私は古代魚のいるワールドに入室した。探すまでもなく古代魚は宇宙船のブリッジにいて、地球の見える操縦席ではなく地べたの暗がりにいた。それがまた奴らしいと思った。
「あ、どうもどうも。なにさま蛙さん、最近よくログインしてますねえ。なんかありましたか」
「なんかも何も、ちょっと参っててな。聞きたいことがあるんだが、あんた、誰かと一緒に住んでるってのはどんな感じなんだ?」
 古代魚は魚体を激しく左右に振って、
「ええっ、どうしたんですかそんなこと。どんな感じって、いやあ、こっちが聞きたいですよ。僕はまあ、ほとんど顔合わせることないですし? 玄関で音したら帰ってきたなとか、ゴミ出そうと思って玄関に置いといたら開けられて荒らされてるとか、お風呂場にチェーンかかってて僕入れないとか、そういうのでいるって分かるくらいで。どうしたんですかなにさま蛙さん、結婚願望ですか」
「いや俺は今すぐどうこうってわけじゃないが、あんたは結局、直接同居人サンと話したりせずに、お互い家の中の状況証拠から相手のことを察して暮らしてるんだろう? 見落としたりしないのか? どうやって上手いことやってる?」
「あ、いや、察してるのは僕だけだと思うんですけど、まあパターンがありますからねえ。例えばゴミ荒らされるのは、あれは分かるんですよ、ああやりかねないよなあって。要するに、あったものがなくなるとか場所が変わるっていうのが嫌なんですよね。自分のものが入ってるかもしれないと思ったらなおさら。結構それが理由ですね、家庭内別居になったのは。なんにも共有できないですからね」
 古代魚の口調は普段と変わらず無感動だった。感情を抑えているのではなく、既に古代魚にとって当たり前の生活の一部になっていることを話しているだけなのだ。その凄絶さは私には及びもつかないが、今は私の側もただ聞いているだけではない。私自身の生活の危機を乗り切るために、できるだけ情報を引き出したいのだった。
「パターンか……どのくらいで分かるようになる?」
「僕は一緒に住み始めて半年経たないくらいですねえ、ああこの人は僕とは違うルールで生きてるんだなって。でも普通の家庭でも価値観が違うのは当たり前じゃないですか、だからもうどうにもできないですよねえ。それに、気がついたら単純なんですよ。診断とか、そりゃ何かしら出してもらうことはできると思いますけど、あの人実はめっちゃ単純なルールで生きてるんです。うん」
「そのパターンなりルールなりさえ分かれば、少しは楽になるということなのか? つまり、注意するべき場所が絞られていく、というのか……」
「そうですねえ、はい、そんな感じですねえ。うちの場合は、言い方はアレですけど、縄張りなんですよ。えーとですねえ、自分がこうって決めたものに人の手が入るのが許せないんだと思うんですね。だから、僕は同居人のものには絶対手つけませんし、共有のスペースで何か物が動いてたらそれは戻さないです。普段はそれで何とかなりますねえ。逆に、もうがっつり僕のものってなってるものには向こうは絶対手つけません」
「しかし、風呂場には鍵かけるんだろう?」
「あーまあ、それはお風呂場が縄張りになっちゃってるんですよね。ただそれは何週間かすると興味が離れて、逆に向こうがお風呂入らない時期っていうのが来ます」
 離婚したらどうだ、とは言えなかった。古代魚自身がそれを考えなかったはずはない。それでもできない理由があるのだ。私は彼の事情を何とかしてやれる立場ではないし、それが分かってなお正論を投げかけるにはあまりに物分かりのよいキャラで生き過ぎていた。私たちはそれぞれの生活をそれぞれ戦うことでしか対等に共にあれないのだと思った。
 古代魚の頭の上にはユーザー名のネームプレートが表示されていた。この名前を持つVRユーザーは、私が会う時にはほとんど常に古代魚のアバターを使っている。そのためだろう、彼のユーザー名を見て私に浮かんだのは同じ古代魚の姿で、その像は彼のアバターに重なるやぴたりとはまり込んで古代魚の声で喋った。
「なにさま蛙さん、大丈夫ですか。なんか悩みがあるんじゃないんですか」
「いやな、笑わないで聞いてほしいんだが、昨日『言霊風俗』に行っただろう。あれから、リアルの物が何でも俺に話しかけてくるように感じる」
「ああー、それで同居人の話ですか」
「話が早くて助かる。俺の気のせいというか、変なことを気にし過ぎてるのは分かるんだが、あいつらに感情があってそれを察しようという気になるのをやめられんのだ。いい塩梅で無視する方法があれば知りたいと思ったんだが……」
 古代魚はいかつい頭を振り上げて考えるそぶりを見せたが、再び私の方を向くと、やはり魚体を左右に激しく振った。
「すいません、その感覚は分かると思ったんですけどやっぱり分からないですねえ。無視するのは、まあ慣れしかない……んじゃないですか。僕は確かに物で同居人とコミュニケーションしてるって言えばそうなんですけど、なんやかんや相手は一人ですからねえ」
「そうか……無理もないな。笑えんのは、あの言霊風俗のせいか、話しかけてくる物が全員美少女なんだ」
「ははは、よりにもよってなにさま蛙さんがですか。僕も美少女アバターになりましょうか」
「やめんか、そういうことじゃない」
 苦笑しながらも、私はこうも思った。何かのメッセージを投げかけてきて、そこに耳を傾けざるを得ないような強制力が宿るのなら、可愛さでそれをする美少女と、付き合いの長さでそれをする古代魚アバターの間にどれほどの違いがあるのだろう――と。
「ああ、でもそれで一個納得がいきました」
「何だ」
「うちの同居人の、自分の縄張りのものを人に動かされたくないっていうの。あれ何でだろうと思ってたんですけど、そこにある物の声を聞いちゃってたんですねえ。自分自身のこだわりじゃなくって。お願いされてるんだ。だから融通利かないんだ。なるほどです」
「…………」
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次に続く・・・