Aleph #5(メタバース連載小説)

 トイレが、私を嫌がり始めた。
 いよいよ来たかと思った。いずれこうなる予感はしていた。流石に病院には行ったが、本当のことは何一つ説明しなかった。どう説明してよいのか分からなかったし、説明できたとしても出される薬はそう変わらなかっただろう。何より、この状況を病気として扱うことに、恋ヶ淵稲荷をはじめ私の身の回りにある物たちが猛反対した。そのくせ彼女たちは私に不平を言うことはやめないので、私は用を足す時にも「待て! 待て! だから違うって! 許せ! 許せよ!」と声に出して窘めなければならなくなった。
 職場では、三日で同僚から心配されるようになり、五日で仕事を回されなくなった。七日目に休職届を出した。私の職場に休職制度はあっても使った前例はないため、一悶着あるかと身構えたが、日増しに仕事ができなくなっていく様子を見せていたためか怖いほどにあっさりと通った。ただ、“会社”は私に向かって『ざこ♡ ざこ♡ 女の子にいっぱい耳元で囁かれただけで脳みそ壊されちゃって情けなさすぎ♡ こんなんで人生だめになっちゃうんだ♡』と言った。
 私はVRに入り浸るしかなくなった。
 VRは現実に比べれば過ごしやすかった。ここでは全ての物はあらかじめ名付けられていて、作者があり、私の想像力が無節操に美少女を生み出す余地はなかった。他のユーザーのアバターを見ても、名前と姿と話す内容は概ね紐付けられていたから、彼らが別のものに見えたり別のメッセージが聞こえたりすることはなかったのだ。
 私は食事の時でさえVRゴーグルを外さず、用を足すために念入りに許可を取ったペットボトルをパソコンの脇に置いておくようにさえなっていた。人間こういうことには慣れるもので、ゴーグルをかぶったままでもほとんどの日常動作はできるようになってしまった。とはいえ、買い物に行く時だけはVRから出なければならない。出前を取るとチャイムの音があまりにもうるさいからだ。
 私は重い腰を上げてVRゴーグルを外し、コンビニに足を向けた。ゴーグルを外した瞬間に、部屋が『やーっと戻ってきた』と言った。ゴーグルを机に置くと、机が『こういう時だけ当てにするんだよね』と言った。台所の手拭いが『帰ってきたら洗えよ』と言うのを無視して、ドアノブに手を伸ばし、
『あ、あは、どこ行くのかな、だめだよ、逃げられないからね、君はずっとここにいるの、どこにも行かなくていいんだから、』
「だーっ!! 分かったから!! すぐ戻ってくるからちょっと静かにしててくれよ!!」
 夜で、暑気の和らぐ時期だった。この時間でなければ恋ヶ淵稲荷が起きてこないのだ。古い戦友のようになったエレベータを待って一階に降り(「ちょっと待っててよ、今立て込んでるんだよね」「ご苦労なことだ」)、住宅街に踏み出した。今の住宅街は私にとって、座り込む数メートルの巨大な美少女の群れと同じだ。
『あーっ、人間さんはっけーん』
『どうしよっかなー、食べちゃおっかなー、今日は見逃してやろーっと』
『でもー、地震が来たらちょーっと優しくしてあげられないなー?』
 彼女たちの足元で暮らしていると、人間の暮らしがいかに破滅と隣り合わせであるかが分かる。地震、風水害、火事、あらゆる些細なきっかけで、彼女たちは人間の敵になる。それは彼女たちが彼女たち自身のルールで生きているからだ。人間が友人を選ぶように、彼女たちはいざという時には長年の住人たる人間よりも酸化反応や重力の言うことを聞く。彼女たちが直接手を下すまでもない、彼女たちの中にいる冷蔵庫やテレビや箪笥もまた、人を殺すことに躊躇など持っていない。
 それは、意思を持たない物体が落ちたり燃えたりするよりも、よほど恐ろしくて、寂しいことのように思える。
 水音を聞きながら駅への道を歩く。かつては川だったという水路は、背泳ぎしながら私の後をどこまでもついてくる。水路が暗渠に入る頃には駅前の喧騒の中、即ち人里だ。スーパーは騒がしすぎるので、このごろの私は多少割高でもコンビニに行くしかない。
 コンビニは基本的にはやる気のない場所だ。自動ドアがのろのろと開けばやっつけ仕事のような音楽を流し、棚に詰め込まれた缶詰や下着からは盛大な溜息が聞こえてくる。要冷蔵の食品のコーナーはさらに悲惨で、だらけたビニール包装の中に完全に人生を諦めきったようなサラダチキンやハンバーグ弁当が体育座りをして『廃棄されるために死んだんじゃないんだけどなあー』とぼやく。私はその中から一つか二つだけを選んで助ける。何日かの分をまとめて買い溜めるとしても、せいぜい十個かそこらだ。それ以上は救えない。
 野菜と冷凍食品とウイスキーを人身売買して、来た道を戻る。コンビニまでの往復、距離にしてわずか一キロそこらが、今の私にはひどく疲れる。ちょうど家と駅の中間点に恋ヶ淵稲荷があるのがせめてもの救いだ。私は鳥居をくぐり、地べたの敷石に腰を下ろして今さっき買ったウイスキーをコンビニの袋から出した。ここなら周りのマンションたちも余計なことを言ってこない。
 恋ヶ淵稲荷が祠からするりと出てきて、注連縄の下に座った。
『や、お疲れだねえ。でも会いに来てくれてえらいぞ』
「冗談じゃない。俺はどうなってしまうんだ?」
 私はウイスキーを瓶のキャップに注ぎ、お供え代わりに祠の前に置いてやる。
『あなたはそればっかりだねえ。せっかくあたしとお話できるんだから、もっと楽しめばいいのに』
「限度があるだろう限度が。お前だけなら別に問題なかったんだよ。いくら俺でも、この世のもの全部の話を聞いてやるのは無理だぞ」
『全部? それは言いすぎだよ、あなたが会ってるのはまだまだほんのちょっとだと思うんだよね』
「それはそうだろうが。俺はもうろくに出歩くこともできん」
『そうじゃなくってね』
 恋ヶ淵稲荷は祠の前でもぞもぞと座り直し、私に向かって身を乗り出した。
『まだほんのちょっとっていうのは、“細かさ”の話なんだよ。1、2、3……しか知らない子供と、小数を知ってる人とでは、同じ1から10まででも見え方が違うでしょ? 小数を使えば、無限に細かい世界が見えるよね』
 ――そういうことか。
「勘弁してくれ、俺は子供の数え方で間に合ってるんだ」
『つれないなあ。でも、小数を知ってる人の間にも差があるのは分かる?』
「大学で聞いたぞ。ルート……無理数やらを入れるかどうかで変わるんだろう。“無限”の、“濃さ”が」
 恋ヶ淵稲荷は、私が知らないことは喋れない。彼女は私の妄想だからだ。だが、私の妄想が私の思い通りになるのならこんな苦労はしない。
 それでも私は、彼女が私に何を伝えたいのかを、きっと知っている。
『そうそう。それで、その“濃さ”の違いを表すのに使う数学の記号が、“アレフ”』
 恋ヶ淵稲荷は私に顔を寄せて囁き、私のウイスキーのキャップを取ってひとくち舐めた。水面が動き、中に注がれたウイスキーがだまし絵のように顔を変えた。

 ある日、私はVRで数人の知り合いと話していた。そのうちのあるものは「人外境」で会ったことがある。昼間で、私はVR中に食べるためのおにぎりを手元に用意していた。つまり、この知り合いたちは自由業か、学生か、そうでなければ私のような社会落伍者ということだ。
 そのうちの一人、セーラー服をゴシック調に改変した猫耳の少女が、「言霊風俗」を話題に出した。
「ちょっと前にSNSで話題になってましたよね。僕あれまだ行ってないんすよ。よかったら一緒に行ってもらえませんか?」
 ジーンズにパーカーのショートヘアの女が、
「あ、俺そこ行ったわ。結構楽しかったよ。また行ってもいいけど」
 浮遊する蛇口が、
「あそこセンシティブ設定してないって炎上してなかった? まあ名前からしてアレだけど」
「ワールド自体はセンシティブじゃないんじゃないか? 入力によってはそういうのも出るってだけで」
「出るんならダメなのでは? なにさま蛙さん、行ったことあります?」
 ぼうっと話を聞いていた私は急に名前を呼ばれ、
「ん? ああ、俺はあるな。その時はセンシティブなのは出なかったが……あまりお薦めはしない」
「えー? そうなんですか? ちなみになんで?」
「……人の醜さが出る」
「いやどういうメンツで行ったんだよそれ。じゃあ今から行ってみるか?」
 言って、ショートヘアの女はワールドを移動するためのポータルを私たちの前に出した。セーラー服と蛇口は即座に飛び込む。私は躊躇った。今度は何を見せられるのか分かったものではない。だが、既に感覚が壊れてしまった私には、何が来てももはや大した驚きはないとも思った。
 三人に続いて、ポータルをくぐった。
 ロード画面があり、やがてそれが終わった。
 以前見た、夜の店を模した鏡張りのフロアが、そこにあった。
 しかし、先に入ったはずの三人の姿は見えなかった。店の奥の方にもおらず、隠し部屋らしきものも軽く調べた限りでは見当たらなかった。
 サービス側のバグで、違うインスタンスが作られてしまったか。
 私は彼らのいるインスタンスに移動しようとした。幸い三人とは以前から面識がある。居場所を辿ることはできるはずだった。
 私はメニューを開き、彼らが本当にここにいないのか、ワールド内のユーザー一覧から探そうとした。

 誰かいる。

 私の他にもう一人だけ、このワールドにいるユーザーが表示されている。辺りを見回しても店内に人影はない。そのユーザーの名前を確認する前に、私の視界の端で何かが動いた。
 店の一角のボックス席にあるタブレットが点灯して、「言霊風俗」に何かが入力されていた。
 その間に、何者かはインスタンスから退出していた。知り合いでない以上、行き先を追うことはできない。召喚主のいなくなった「言霊風俗」は構わず半透明の人型をそこに配置し、生成と読み込みの処理を始めた。私はそれを呆然と見つめた。読み込みが終わって私の前に表示されたのは、全身を覆う黒衣に黒い山高帽をかぶった、背の高い色白の女だった。
『ソーサツ・チエカ』
 タブレットの音声入力欄には、そうあった。
 思い出した。私が最初に「言霊風俗」に来た時、平坦な声で大量の美少女を生成していた女だ。あの時私は恐れをなしてこの女をブロックした。今しがた同じインスタンスにいても見えなかったのはそのせいか。私に気付いて、ブロックされていても見える方法で自分の姿を見せてきたのか。何のために。そして、キャラクターの細部を言葉で調整できる「言霊風俗」で、だからこそ、あの短い入力でどうやって寸分違わぬ姿を出力できたのか。
 女がテキストボックスで喋った。私が何かを言う前に。
『お久しぶりです、なにさま蛙さん。ソーサツ・チエカと申します』
 女の頭の上に表示されたテキストボックスの文字を見て、しかし、私はかつてここで聞いたのと同じ硬質な声を思い出した。思い出してしまった。
『私がこのワールドの製作者だとお思いですか? いいえ、しかし私も興味は持っています』
「何の用だ?」
『あなたに、もう一歩を踏み出していただくために。見えていますよね? この世界を形作る“美少女”が』
 女はそう言った。あれからこの女には会っていないし、お互い見えないまま同じワールドですれ違っていたということもないはずだ。にもかかわらず、女は私の今の状況を知っているかのように尋ねた。危険だ。まず疑うべきはストーカーの類だった。
「俺に関わるな。お前の協力も助言も必要ない」
『では、あなたのことではなく、私のことを。ソーサツ・チエカとして話す私を、既にあなたは私として見てくださっていますね? そう、受け取られる情報が同じなら、情報を発した者もまた同じ。送り手によって付け加わる仕草や文脈の情報まで同じなら、区別する手段はないでしょう。私たちは最初に情報を受け取って、そこから送り手の像を組み立てます。逆ではありません』
 本当にストーカーなら迂闊に刺激するのは得策ではない。聞き流しながら様子を見るべきだ。私はゴーグルをかぶったままテーブルの上のおにぎりに手を伸ばし、音をたてないように静かにフィルムを剥がし始めた。
『ここVRの住人は、多かれ少なかれ自分自身の一部をここに持ち込んで表現します。しかし全部ではありません。とすれば、ここで表現された情報から物理現実の人物像の全体を知ることは、当然できませんよね。ですが、それは情報が不完全だという意味ではない。表現された情報を、もし全て言葉にして「言霊風俗」に入力したなら……部分なら部分なりの、一人の美少女を生み出すでしょう』
「…………」
『私は、『ソーサツ・チエカの擬人化』。この世界で出会う全ての方たちはそうなのです。生きて有限の情報を放射している全ての存在が、望むと望まざるとにかかわらず、“部分としての美少女”を絶えず抱えていくことになります。逆にいくつもの存在がひとまとめの情報として扱われるとき、そこにもやはり“総体としての美少女”が現れます。あなたはもうご存知ですよね?』
「…………」
 知っている。電車の中で見た、通勤サラリーマン波動。そう思い返してしまうこと自体が、女の話に引き込まれてしまっていることの証だ。私はおにぎりから海苔を外し、音をたてないように静かに口に運んだ。私のゴーグルでは目と口の動きはリアルタイム検知されない。
『ましてや――ここVRにも、擬人化できないものなどありません。多少、作者のつけた名前の力が強いですけど――それも、隙間を縫っていくらでも――ほら、『言霊風俗のテーブル』――『言霊風俗のソファ』――『言霊風俗のミラーボール』――『言霊風俗ちゃん』――』
「……!! やめろ!」
 女の声に応え、新たな人型が無数、私たちを囲んで立ち上がった。『言霊風俗のテーブル』は黒い光沢のあるレザースーツを着て、『言霊風俗のソファ』は胸が大きく、『言霊風俗のミラーボール』は銀のアクセサリーを過剰につけ、『言霊風俗ちゃん』は大きな鏡を盾のように構えていた。私は女をブロックしようとしてコントローラを向けた。コントローラは女をユーザーと認識せず、ポインターは空を切った。
 女は『言霊風俗ちゃん』の手を引いた。頭の移動につられて『言霊風俗ちゃん』の足が動いた先は私の正面だった。
『ほら、なにさま蛙ちゃん。何が見えますか……?』
 女が引くのと反対側の手に構えられた鏡に、蛙の姿をした私が映った。次の瞬間、私の姿に重なって『なにさま蛙ちゃん』が鏡の中に現れた。否、それは私の姿そのものだ。蛙と美少女が二重になった像を見て、箍の外れた私の脳の回路が、次の美少女をそこに浮かび上がらせた。それもまた『なにさま蛙ちゃん』だ。二人目と一人目を思わず見比べると、その二人がまとめて擬人化されて三人目が現れた。そして蛙と美少女と美少女と美少女で構成された『なにさま蛙ちゃん』がまた擬人化され、四人目が現れた。また、五人目。
「待て、やめろ!! やめろって言ってんだろ!! クソ、あいつらどこ行った!!」
 私は狼狽し、おにぎりを食べかけのままインスタンスを退出しようとした。メニューを開くその頭越しに、女がぽつりと、
『――――『一粒のお米』――――』
「――――っっっ!? うぐ、む、ふぐうううううううううう――――――――――――!!」
 瞬間――私の口の中にあったおにぎりの欠片が、まるで塊で産みつけられた虫の卵が一斉に孵化するように米粒の数だけの美少女に変わった。歯の間ですり潰された米粒から、『米粒の欠片の美少女』と『米粒の欠片の美少女』と『米粒の欠片の美少女』と『米粒の欠片の美少女』と『米粒の欠片の美少女』が生まれた。そのいくつかは勢いで私の喉に滑り込み、『私の消化管と一粒の米』の結合したものとして新しい美少女となった。彼女たちはやがて消化酵素によって莫大な量の糖鎖に分解される。美少女たちは私の中で口々に自分を主張して、私の右耳と左耳の内側で、数億人からなる恐ろしい不協和音の合唱を上げた。
『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べないで!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べないで!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べて!』『食べないで!』『食べて!』『食べないで!』
 相反する要求を叫ぶ米粒の美少女たちを?み込むことも吐き出すこともできず、床を転げ回った。目を開ければ『言霊風俗ちゃん』の鏡が私を覗き込んでおり、鏡と私の網膜の間で美少女の情報がループして、一瞬のうちに膨大な数の美少女が生み出されて『なにさま蛙』を上書きした。
 美少女は私の身体の中にも外にも無限に現れ続け、瞬く間に私の脳の容量を埋め尽くし、私が私として認識していた形を瞬く間に食い尽くした。
『――――――――』
 その静かな狂乱を見下ろして、黒衣の女は静かに微笑んで、美少女で満ちた光景の中に佇んでいた。

 その時から、VRにも現実にも、なにさま蛙の姿を見た者はいない。

〈『Aleph』終わり〉