井の頭公園のエルフの物語#5(メタバース連載小説)
ー君の笑顔でも治らない病(中編)ー
るいざ・しゃーろっと
湯畑の脇の道を行くと千代の湯の前を通る。この共同浴場には時間湯という伝統的な入浴法ができる浴室もあるのだが、今回のお目当てのお店にはまだ遠いのだ。
「時間湯……面白そうね。時間があったら入ってみない?」
ラスクが興味ありげにハオランに語りかける。ただ、この時間湯、いろいろと騒動になっていることをハオランは知っていた。時間湯の利権を疑う町長が女性町議にセクハラをしたという疑惑が浮上し、しかもそれが事実無根かもしれないという疑惑も浮かんでいる。そして町の内外のいろいろな人が騒ぎ立てたこと、さらには「万病に効く」と期待して草津温泉にやってきた湯治客もその騒動の余波でつらい思いをしていることも。だが、そんな事をハオランはラスクに言えなかった。
「気になるけど……観光に来た一見さんが入れるかな?」
彼女には難しい話は言わないでおこう、下手に空気を悪くして関係が壊れたらと思うとうまく言えなかったのだ。男と女の関係など、脆い砂のお城なのだ。現に、あの池のボートに乗ってしまったハオランは、そのことをいたく実感していたのだ。
ラスクもニュースなどで草津の騒動の存在は知っていたが、何が起こっているのかわからなかった。
「まあ、いろいろ騒ぎがあったらしい……」
遠く、空を見つめるハオラン。
「耐えられない……不毛な争いは。同じ人であるのに、なぜいがみ合わなければいけないのか……」
ラスクには何を言っているのか全てはわからなかった。そんなハオランはうつむきながら言葉を続ける。
「相手のことを思いやって、相手によりそうことを、しなければいけないんだ……。特に、目の前の人に……。僕は……、僕は……」
罪の呵責が、ハオランを襲う。あの時、サキュバスの誘惑に打ち勝っていたら、ラスクに心配をかけることはなかっただろう。愛するという覚悟が、足りなかったのだ。だけど、今なら思える。目の前の人だけを、見つめて生きていこうと。その言葉に、はっとするラスク。
「ありがとう、でも無理しないでね……」
あの時ハオランも苦しんでいたことをラスクは知ったのだ。だからこそ、その思いはしっかりと伝わったのだ。
「さあ、行こうか……」
ラスクの手を取り、ハオランはその先に待ち受けている二人の未来に向かって偉大な一歩を踏み出したのだった。ハオランの言葉に満面の笑みで応えるラスク。その微笑みに、ハオランの苦しみも癒やされるのだろうか、ラスクが見た彼の横顔は昔の頼りない少年の顔ではなかったのだ。お互いの心を支え合える立派な大人の顔に見えたのだ。ハオランは頼れる青年になったのだ。
道は上り坂となり、さらに狭くなる。山間の湯治場だけに、草津は坂が多いのだ。しかも、目指すお店は湯畑からだいぶ離れており、お店にたどり着くまでの間には急な坂を登らなければいけなかった。昔のハオランなら泣き言を言っていただろう。だが、今の彼はひたむきに坂を登っている。さすがに息は上がっているが、前を向いて、しっかりと。その姿にラスクは成長を感じていた。しかも、お店選びから予約まで、彼は全て手配していたのだ。彼の横顔は、本当に凜々しく見えた。その凜々しい横顔にときめくラスク。ほどなくしてペンションにあるイタリアンのお店の前にたどり着いた。予約しているお店はここらしい。
「スープとパスタとメインのコースを予約していたハオランです。よろしくお願いします」
お店の人とのやりとりを見たラスクには、彼の成長が信じられなかった。これまでの頼りないハオランとは違う、テキパキと会話をししっかりとリーダーシップをとる彼の姿に。
「……ほんと、見直したわ。それにしても、このお店、どこで知ったの?」
ラスクの問いに答えるハオラン。
「竜神様の友人のエルフのお姉さんに教えてもらって……」
どうやら、ハオランの話ではそのエルフのお姉さんがかつてこのお店で料理に感動したので薦めてくれたとのこと。このお店の料理は地のものを使い、さらにはジビエも出てくる。しかも、味もおいしい。混んでいるのは玉に瑕だが、それも予約したおかげですんなりと入ることができた。
「とてもよく仕事ができているから、いっしょに食べたいと思って……」
ちょっと照れくさそうにハオランが答える。その様子もラスクにとっては微笑ましい。そうこう話をしているうちに、地元の野菜を使ったスープが運ばれてくる。地産地消の一皿。そして、この地だから食べられる一皿。都会に住んでいるラスクにしてみれば、どんなところの料理も取り寄せて食べることができるのは当たり前だと思っていた。だが、足を運ぶことに価値がある、そうラスクは気付いたのだ。今は遠い国の人と気軽に話せる時代だ。だが、バーチャルの世界においては食べることも、温泉に浸かることも見せかけのことである。そのことに気付かずにいられただろうか。今食べているものは、この草津だからおいしいのだ。この料理を東京で食べることに、何の意味があろうか。だからこそ、旅をして未知のものと出会うことは、人生の中で珠玉の宝石になるのだと思った。この目で見なければ、わからない。この身体で覚えなければ、わからない。そうこうしてるうちにパスタもメインディッシュも食べ終わっていた。やはり、このお店に来られてよかった。ラスクはハオランが広い世界を見せてくれたことに、心から感謝するのだった。
料理に舌鼓を打った二人はいったん湯畑の方に戻ることにした。三時になれば西の河原の露天風呂にいっしょに入れるが、それまでには時間がある。この草津には無料で入れる共同浴場もあり、そこを廻るという手もあった。だが、共同浴場は地元の住民のためのものだ。だからこそ、湯畑の周りを廻って暇を潰そう。そんな二人は自然と湯畑の方に向かっていた。千代の湯の前まで来た。時間湯以外に普通のお風呂もあるようだ。
「まだ、時間あるわね……もしよかったら、入ってみない?」
幸いながら、この千代の湯は観光客に開放されており、しかも無料で入れる。そんなラスクの提案に乗るハオラン。浴室の入口で、しばしの別れ。さすがに、まだ彼女の生まれたままの姿を見るには早いとハオランは思っていた。まだ、彼には彼女を幸せにできる自信がなかったからだ。末永くいっしょにいたいとは思いつつも、また失敗を犯してしまうかもしれない。彼女が離れていくということを、ハオランは考えたくなかった。なぜなら、あの時ラスクが手を握ってくれたときのぬくもりを、そして涙の雫を覚えていたから。もう、あんなまねはしたくないのだ。だから、ラスクを護れるだけの人になりたいと。そんな思いをしながら衣服を脱ぎ、お湯に浸かる。このお湯は、熱いのだ。さすがに長く浸かっているわけにはいかない。しかも、刺激が強いのだ。酸性の強い草津の湯は痛みすら覚えるほどの刺激であるが、それ故に万病に効くと言われている。だが、さすがに恋の病には効かないのだ。そんなハオランは、かつて同級生が「ラスクちゃんの笑顔は万病に効く」と言っていたことを思い出したのだった。活発で人当たりもよく、皆の人気者だったラスク。そんな彼女のそばに、いてよいのだろうか。だが、あの時手を握られたぬくもりを忘れることはできなかったのだ。だからこそ、彼女のそばにいるにふさわしい人にならなければ。そう思うからこそ、彼女の思いに応えたいのだ。そして、彼女を悲しませることは、決してするまいと。そんな決心を固めつつ、ハオランは湯から上がるのだった。
次に続く・・・