井の頭公園のエルフの物語#8(メタバース連載小説)

ーこっちに来るなー

 カーテンを開けると、輝かしい宝石が窓から飛び込んできた。朝の光だ。
 昨日の結婚式、私の手の中にブーケは飛び込んできた。その時私は幸せになってよいものかと苦悩していたが、その夜自宅に帰った私はカリンに後ろから抱きとめられたのだ。
 私は、人を愛せるのだろうか。私は、人を幸せにできるのだろうか。そう思っていると夜も眠れなかったのだ。そのせいか、未だに目は冴えないのだ。
 かぐわしい香りが鼻の奥をくすぐる。カリンが、コーヒーを淹れてくれたのだ。私はお砂糖もミルクも入れぬまま口に含んだ。やはり、私にはお砂糖はまだ早いのだ。おそらく、私が人を愛すると、その人を傷つけてしまう。だから、愛なんて、私には縁のないものなのだ。そう、思っていた。
 そして朝から新刊の原稿の作業が始まった。相変わらずのペースでカリンはタブレットにペンを走らせていく。だが、私の方はネームを見る目が泳いでしまうのだ。どうも、集中できない。
「疲れて、いるのかな……」
 心配そうに私を見つめるカリン。
「ああ、ちょっと疲れているらしい。散歩に、行ってくるよ」
 そう私は告げて家を出てきたのだった。目指すは、三角広場。公園のベンチで頭を冷やせば考えが捗るだろう。そう、思っていた。そういえば、この公園のベンチには言葉が刻まれている。市民からの寄付を募って、メッセージを刻んだのだ。私が座っているベンチにも、言葉が刻まれていた。

 人生は長い、疲れたら休め。
 脇道を行くのも又良し。
 ??エリナとプリン

 どう考えても、私に言われているようにしか、見えなかった。だが、休むにはまだ早い。そう言い聞かせながら、私は池の方に足を踏み出していた。そして弁財天の前を通り過ぎた。その時に、私は一つの視線に気がつかなかったのだ。
「どう考えても、思い詰めてますね……何があったのでしょうか?」
 私は、友人の声に、気がつかなかったのだ……。

 さらに足を進めていくと、万助橋にたどり着いた。ここを流れるのは神田川ではない別の川だ。かつて、江戸が世界一の街だったときに、その水をまかなうために引かれた水路だ。江戸が東京と名を改めてからも、この川は水源として使われた。しかし東村山に浄水場ができてからは、この川はささやかな流れになってしまったのだ。橋の上から、川の水面を見つめると、そこには一人の男が立っていた。なぜ、この川に、男が立っているのだろう。そう思っていたときに、男は叫んだのだ。
「こっちに、来るんじゃない!!」
 どういう意味なのか、私には一瞬わからなかった。その言葉と共に、地面が、世界が揺らいでいく。男の言葉が、私の心に刺さっていた。私は、もはや立っていることは叶わなかったのだ。まぶたが、閉じていく……。

 目を覚ますと、そこにはハオランとラスク、そしてカリンと竜神様がいたのだ。明らかに、ここはラスクたちの新居だ。さっきまで、私は万助橋にいたはずなのに。
「私たちが駆けつけてなければ、今頃大変なことになっていたわ……」
 ラスクからお叱りを受ける。カリンの方を見つめると、その目にはキラリと光るものが浮かんでいた。また、私は彼女を泣かせてしまったのか……。
「……竜神様から倒れたと聞いて、大急ぎで駆けつけてきたんですよ!」
 どうやら、私は万助橋で失神してしまったらしい。男の言葉を聞いたのは、幻聴だったのだろうか……。
「……ああ、あの川で、私は男の声を聞いた」
 その話に背筋を凍らせる竜神様。そして、竜神様から、ここで一組の男女が身を投げたことを聞かされたのだった。その男の名は、太宰治。あまりにも美しい言葉と、危うさを書き綴った文豪。女性といっしょに、あの川に、身を投げた男。その男に、こっちに来るなと言われたのだ。もっと書け、とも……。
「今は、書くときではありません。休みましょう!」
 竜神様に、強い口調で怒られてしまった。全く、その通りだ。全てが、疲れているのだ。だけど、新刊の原稿が出来上がるまでは、私は休めないのだ。しかも、明日は、ここねが走るのを応援に行かなければいけない。
「仕方ないわね、あの高校は私たちの母校でもあるから、いっしょに行くわ。あと、今日は休んで!」
 ラスクに強く言われたので、私は自宅のベッドで休むことにした。ハオランとラスクがつきっきりで世話をしてくれるらしい。
「原稿は私が進めておくから、安心して休んでくださいね……」
 カリンの微笑みに、少し気が楽になったのだ。

 自宅のベッドに、私は身を委ねる。キッチンからはハオランの声が聞こえてくる。ベッドの傍らの椅子には、ラスクがちょこんと腰をかけていた。
「はい、オートミール。じっくり食べて、じっくり休んでください!」
 ハオランの作ったオートミールが運ばれてくる。重い身体を起こし、私はさじで口に運ぶ。甘い牛乳の味ではなく、出汁とほんのり梅干しの効いた、和風味。どこか、懐かしさを感じさせる優しい味だ。一口運ぶと、三人の優しさが私の心を震わせた。私は、自分を追い込んでいないだろうか。価値がないものだと思っていないだろうか。このオートミールは、三人からのお叱りであり、そして精一杯の労りの一皿なのだ。明日、ここねを精一杯応援するためにも、今日は休まねばならない。まだ日は高いが、私はこんこんと寝込んでしまったのだ。

 そんな夢の中に、あの男は再び現れた。
「私が刺すと思った奴も、私を嫌いだと面と向かって言った奴も、なぜかこっちに来てしまった……」
 男から、そういわれて驚いた。
「あいつらがなぜこっちに来ることを選んだのか、全然わからないんだ……」
 さらに男は言葉を続ける。
「言葉は、銃弾だ。一度撃てば、銃には戻せない……。だが、人間は、完全じゃない。人を傷つけない言葉を撃てる奴なんて、いるわけがない……」
 その言葉は、私の心を撃ち抜いていた。
「しかも、己の苦悩は己にしか書けないんだ。だから、書け、お前の言葉で……」
 そう言い残すと、男は姿を消した。この私は人を傷つけてまで言葉という刃を振り回してよいのだろうか。だが、私の苦悩は私にしか語れないのも事実なのだ。そうこうしている間に、またしても世界は揺らいでいく。書け、という男の言葉が心に突き刺さっている。その刺さった言葉から、熱いものが私の心の中に流れ込んできたのだ。刹那、私は言葉にならない叫び声を上げて跳ね起きたのだった。

 跳ね起きた様子を見たカリンが真っ先に飛んできた。続いて、キッチンにいたハオランとラスクも飛んでくる。
「その、つらそうな顔をしていますが……悪い夢でも見たんですか?」
 心配そうな口調で聞いてきたカリンに、私は見た夢の内容を正直に話した。ごもっともという顔をするカリン。その一方で、ハオランもラスクも目を白黒させている。
「まさか、霊に取り憑かれた、というわけでもないかしら?」
 冗談交じりのようなラスクの口調。だが、取り憑くには、私はもうちょっとよく言葉を書く人を選ぶべきだと思ったのだ。正直、私は太宰の足元にもたどり着けていないのだ。正直、その一点が引っかかるのだ。だが、カリンは全く違う考えを語ってくれた。
「今の時代、AIがいろいろやってくれるのですけど、私は私自身の表現をしてこそ輝くものができると思うんです。先生の作品も、同じですよ。先生の言葉だから、先生の苦悩だから、響く物語が書けるんです!」
 その言葉に、うなずくことしかできなかった。
「AIの絵は、誰かの絵の寄せ集めにすぎませんから……私の作品ではない気がして……」
 確かに、その通りだ。誰かの苦悩を寄せ集めにしたって、それを私の苦悩ということはできないだろう。私が語るからこそ、心に響くものができるのだ。太宰は、そのことを教えてくれた。
「だから、自信を持って書いてください。先生が先生の物語を書くだからこそ、私が描きたいものができるのですよ!」
 自信満々に語るカリンの言葉に、私は心の傷が癒えた感じがしたのだった。この世界の、物語を書こう。私の物語は、私にしか書けない。私にしか語れない。だからこそ、書こうと私は決心したのだった。だが、その直後、私は新婚夫婦から止められたのだった。「だから、今日は寝てること。最近疲れてるのだから、なおさらね……」
 指を突きつけて諭すラスクの言葉も、尤もだった。
「今日は先生のためにごはんを作りますから、じっくり休んでくださいね」
 ハオランの気遣いもまた、疲れていた心を癒やすよき薬だったのだ。そんな私は夕餉までの間、少し休むことにしたのだった。
「新刊の心配はしなくて大丈夫ですからね。私が、描いておきます!」
 カリンの言葉も、十分頼もしかった。

次に続く・・・