井の頭公園のエルフの物語#9(メタバース連載小説)

ーこっちに来るなー

 しばらく休んだ後、ラスクの声で目が覚める。どうやら、夕餉ができたらしい。ハオラン手作りのクリームシチューに、ふんわりとしたイギリスパン、そしてキャベツのサラダを添えている。一口運ぶと、その優しい味に心を動かされる。牛乳たっぷりの、心が安まる味。鶏肉もほどよく煮込まれていて、実に柔らかい。しかも隅々まで味が染みている。
「ありがとう……これは、心温まる味だ」
 私の言葉に、目を輝かせるハオラン。どうやら、ラスクと結婚する前から手料理を振る舞っていたらしい。話によると、掃除洗濯もお互いで分担してこなしているとのこと。
「今時、家事は女性がするものという考え方は、古いと思ったので……」
 時代の流れに沿った考えをするハオランに、私は感心させられたのだった。私はシチューを平らげると、ありがとうとばかりに台所に食器を下げた。その傍らでは、ハオランは食器を洗っていた。少々、手つきが危なっかしいのが気にはなるが……。
「この感じなら、今後も幸せにやっていけそうだ……」
 その言葉に笑顔を浮かべるハオラン。何はともあれ、明日はここねの応援に行かなければいけないのだ。そのことを話すと、驚きの答えが返ってきた。
「あ、あの高校……私たちの母校ですね。行き方は私たち知っているので、明日は案内しましょうか?」
 何と、あの高校はハオランとラスクの母校でもあったのだ。しかも、有数の進学校でもある。ならば、なおさら案内を頼みたくなる。
「そうね、駅からちょっと歩くから、この体調を考えると誰かがいた方がよいかも……」
 ラスクがハオランと共に私に付いていくことを提案した。確かに、その通りだ。私の体調は万全ではない。だからこそ、勝手知ったる二人が同行することに不安はない。
「ちょっと、恥ずかしくもあるんですけどね……。彼女は、私たちが三年生だったときに入ってきた後輩なので……」
 確かに、今年二十歳になる二人からしてみれば、ここねの先輩なわけだ。
「ま、結婚しました報告も兼ねて、行こうかしら。明日は一限と二限さえ出ちゃえば何とかなるし……」
 新婚なのに一限に出るラスクも、大変なのだろう。だが、彼女の計算によると高校の最寄り駅には十分間に合う計算だ。
「そういう私も、明日は授業がありませんし……ラスクと駅で待ち合わせれば、何とかなりますね!」
 ハオランに至っては授業がないようだ。後々単位が足りないということは避けてほしいものだが……なんとかなるだろうし、おそらく何とかするだろう。
「あ、私は原稿の続きを描いちゃいますね。ちょっと彼女は気になるんですけどね……」
 ちょっと嫉妬混じりのカリンの声に、私は背中が寒くなった。だが、こうもいっていられないのだ。明日のために、体調を整えておかねば。
「そう、早く寝た方がよいわね……」
 ラスクの言葉に甘えて、今夜はじっくり休むとしよう。隣の部屋で新刊の執筆に没頭するカリンをよそに、私は少々早いが部屋の電気を消すことにしたのだ。そんなラスクも、いったん帰ってから私の家に泊まる気満々らしい。ハオランは自分の家で休むようだが。
「その、何かあったら心配だから……」
 その言葉が、ただ嬉しかった。その優しさもあってか、その夜はよく眠ることができた。

 そして、新しい朝がやってきた。私のベッドの傍らにある寝袋にはラスクがくるまっていた。その隣には、カリンもくるまっている。夜遅くまで作業をしていたのか、すやすやと寝息を立てるカリンはやけに愛おしく見えた。そしてキッチンを覗くと、もうハオランが朝食の準備をしている。トーストの香ばしい香り、そしてこの香りは、土の香り。もしかすると、これはビーツの香りなのだろうか。
「おはようございます!」
 家事をしっかりしているハオランは鍋のスープをかき回している。ああ、これは、ボルシチか。この香りには、思い出があった。あの「壁」に苦しんだ日々、そして、「壁」を越えることを夢見た日々……。そう、これは、ウクライナの味だ。もう一つの世界が、かの国から飛んできたのだ。その時の感動を、今も覚えている。その一方で、穴だらけになったバフムトの街に私は心を痛めていた。もう一つの世界を再現した人は、今、無事だろうか……。
「元気を出してもらえるように、精一杯作ったんですよ……」
 私はハオランの笑顔を見ようとするが、なぜか、その景色はぼやけてよく見えないのだ。目から溢れ出る涙が、その視界を曇らせているのだ。彼の精一杯の気遣いは、私の心に空いた風穴を埋めつつあったのだ。いつか、あの穴だらけになったバフムトの街にも、人々の暮らしが戻ることを心から祈るほか無かった。その後、私たちは朝食を一つのテーブルで顔を寄せ合って食べた。スープにサワークリームを溶かすと、真っ赤だった水面が一気に白く濁る。そしてその一匙を口に運べば、目の前には向日葵畑が浮かぶ。これは、夢にまで見た平和の世界なのだろうか。

 お昼を過ぎ、ここねの応援に行く時間がやってきた。私はハオランと共に駅から電車に乗ると二駅先の久我山という駅で降りた。ちょうど先に付いていたラスクと合流する。そこから北に十分ほど歩くと、その高校はあった。都立随一の進学校の一つであり、自由な気風の流れる高校だ。制服もなく、生徒の自主性に委ねられているのだという。なのに、この国の最高学府に毎年のように合格者を輩出している。のびのびと学ぶことが、おそらく未来に繋がっているのだろう。そんな学び舎で学べたハオランとラスクは幸せだ。そんな私たちの前を走者の集団が駆け抜けた。先頭には、ここねの姿があった。がんばれと声をかけようとしたその時だった。世界は、またしても揺らぎ始めた。またしても、男の叫びが聞こえる。
「こっちに、来るな! こっちに、魅入られるな!」

 その叫びだけが、耳に残る。その言葉の意味を考えようとするが、暑さのせいもあってか、頭が回らない。ふらついた私をハオランとラスクが支えていた。その様子に気付いた生徒たちも向かってくる。だが、息が、苦しくなる。辛うじて保っていた意識を振り絞って、私は通りに向かっていた。そこにはラスクの呼んだタクシーが止まっていた。
「井の頭の……まで、お願い!」
 クーラーの効いた車内で、ラスクはタクシーの運転手に道案内をしていた。タクシーは井の頭通りを西に走る。そして、ほどなくして私の家の前にたどり着いていた。
「……本当に、心配したんですよ……」
 ドアを開けるなり、カリンにぎゅっと抱きしめられる。心配した彼女の顔には、一粒の宝石が浮かんでいた。

 万助橋にかかる橋の上で、男は一人虚空を見つめていた。もはや周りの景色は彼が知っている景色ではなかった。川面も弱い流れとなり、人々は多くこの通りを行き交っている。橋を渡る誰もが、この男に気付いていない。そんな男は、寂しそうにつぶやくのだった。
「姿を見せてないと思ったら、こっちに、来なかったんだろうか、坂口君……また、会いたかったんだがな……」
 気がつくと、男の姿は橋から消えていた。